総選挙で巨大洗濯機のスイッチを入れろ

(文中敬称略) 「日本を今一度せんたくいたし申候」とは、坂本龍馬(1836~67)の言葉として有名だ。この言葉は、文久3年(1863年)6月29日付けの、姉・乙女(1832~79)宛ての手紙に登場する。 旧暦6月29日は、今の暦でいえば8月13日。夏真っ盛りである。この時龍馬は数え年29歳。満年齢なら28歳。京都に滞在している。 龍馬の人生は前年から大きく動き始めている。文久2年春に土佐藩を脱藩して長州、そして九州を回り、年末には江戸で福井藩藩主の松平春嶽(1828~90)に面会、その4日後に幕府軍艦奉行であった勝海舟(1823~99)を赤坂の自邸に訪ねて、弟子入りした。 春嶽は「幕末四賢侯の一人」と目される英明な藩主で、龍馬の主君である土佐藩主・山内容堂(1827~72)と友だち付き合いの関係でもあった。勝の能力についてはいうまでもない。春嶽と勝が龍馬の才幹を認めたことで、彼の人生の前途が開けたことは間違いない。 姉にこの手紙を書いた時点で、龍馬はすでに一介の脱藩浪人ではなくなっていた。大藩の藩主たる春嶽と気脈を通じ、勝の手足となって奔走する日々を送っている。 旧暦で書いていくと、文久2年9月に起きた生麦事件(薩摩藩藩主の父・島津久光の行列に遭遇した騎馬の英国人たちを、薩摩藩士らが「馬に乗ったままとは無礼である」として殺傷した事件)で、英国との関係は悪化している。 その状況下で孝明天皇と朝廷は攘夷(じょうい)に傾斜し、文久3年3月に14代将軍・徳川家茂は朝廷に5月10日をもっての攘夷実行を約束した。幕府としては攘夷に本気ではなく、はやる皇室をなだめる意図しかなかった。 が、「攘夷のお墨付きを得た!」と長州藩が暴発した。まさに攘夷実行期日の5月10日に下関海峡を通航する英国船に向けて発砲。下関戦争の始まりである。 他方で、幕府から生麦事件の賠償金を得た英国は、薩摩を標的と定める。6月27日に7隻の英国艦隊が薩摩湾(現・鹿児島湾)に投錨(とうびょう)し、薩摩藩に賠償を迫った。薩摩藩は交渉を拒否し、7月2日、英国艦隊は攻撃を開始する。薩英戦争開戦である。 坂本龍馬の「日本を今一度せんたくいたし申候」という言葉は、下関戦争・薩英戦争が風雲急を告げるさなかに書かれたのだった。 ●制度疲労の極にあった徳川幕府 末っ子で泣き虫だった龍馬は、傑物であった姉・乙女の庇護(ひご)の元で育った。だからだろう、龍馬の乙女への手紙には、内心が率直に吐露されている(原文は、青空文庫で読むことができる)。 手紙はまず「大事なこと書くから決して人に話しちゃいけないよ」という少々甘えた調子の文言で始まる。次いで「自分は、大藩の大名(松平春嶽のこと)に見込まれて、何事かあれば二三百人ぐらいは動かせるようになったよ。お金も十両、二十両ぐらいなら簡単に手配できるようになったよ」と、自慢と姉を安心させたい心とが混ざったらしき言葉が続く。 「日本を今一度せんたくいたし申候」という言葉は、その次の部分に登場する。龍馬は長州藩が英国と事を構えてしまったことを愁い、さらには長州藩の発砲で破損した英国船を江戸で修理していることに憤る。なぜ戦った相手の船を修理しなくてはならないのか。幕府の役人が外国と内通しているからだ。けしからん。そんな悪辣な役人共は、諸藩結束して一戦交え、打ち倒さねばならない。 そこで「日本を今一度せんたくいたし申候」という言葉が出てくるのだ。 実際問題として、この時の状況は28歳の龍馬の見立てよりずっと複雑だった。神君家康の開府以来260年を経て徳川幕府は制度疲労の極にある。なにをやるにも煩雑な手続きと根回しが必須、かつ前例踏襲の原則が正しい行動を妨げる。確かに「洗濯」必須の状況である。

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