<映画の推し事>コンプラぶっ飛ばす「太陽を盗んだ男」 爆発力とゴジの胎内被ばく

「太陽を盗んだ男」が、4Kデジタルリマスター版で再公開されている。1979年、大学時代に封切りで見て以来、47年ぶりに見直した。実は当時、ピンとこなかったのだが、時を経て目を見張った。 古くささを感じさせないどころか、自由奔放な発想と既成の概念や常識にとらわれない斬新さ。スリル、アクションの娯楽性、社会や政治、警察権力に抵抗する社会性と時代性。 ゲリラ撮影は当たり前、ハチャメチャな展開と演出で、面白さを最優先する想像力と気骨にあふれている。昨今の映画が多方面に配慮して萎縮するのとは正反対で、映画のすべてを絡め、ごちゃ混ぜにして煮込んだようだ。 2026年1月に亡くなった長谷川和彦監督の2作目にして遺作。生前の長谷川監督には、何度か話を聞いた。その姿と合わせながら、現代に輝きを増したかに見える「太陽を盗んだ男」の魅力を探りたい。 ◇栗原小巻が導いた長谷川和彦 「太陽を盗んだ男」を封切りで見に行ったのは、長谷川和彦という名前が記憶にあったからだ。筆者は高校から大学にかけて、アート的で小規模な映画、世界の巨匠と言われる監督たちを追いかけるのに夢中だった。 高校生の時に、栗原小巻主演の「モスクワわが愛」(74年、吉田憲二、アレクサンドル・ミッタ監督)を見に行ったら、併映の「青春の蹉跌」(石川達三原作、神代辰巳監督)が青春映画としてめっぽう面白く、脚本に長谷川和彦の名前があった。 毎週木曜深夜に聞いていたTBSのラジオ番組「パックインミュージック」で、パーソナリティーの林美雄アナウンサーが企画した「歌う銀幕スター夢の狂宴」の演出に、長谷川和彦とあったのも覚えている。 長谷川監督のデビュー作、中上健次原作の「蛇淫」を映画化した「青春の殺人者」(76年)は、親殺しの理由が理解できなかったが焦燥感にあふれ、グロテスクな映像に驚かされた。 そして「太陽を盗んだ男」である。ただ当時は、1作目より娯楽性が数段アップしてあきさせず見やすい、よくできた娯楽作という程度の感想だった。 ◇シラケ世代末期、日本映画冬の時代 70年代は大学紛争の敗北から数年が過ぎ、いわゆるシラケ世代も末期を迎えていた。強い意志で権力に立ち向かった世代への憧れを抱く者は少数になり、ノンポリで個人の生活や生き方を大事にする時代へと変わりつつあった。 映画界はテレビの普及による観客の減少から「邦画、冬の時代」などと言われていたが、角川映画が興行、品質両面で映画界を席巻。メディアミックスの作品群は、エンタメ性が強く大ヒット作も相次いだ。 一方で社会や人間をえぐり体制を批判するATG映画を代表として、作家性の強い監督の傑作が次々と生まれていた。俳優では原田芳雄や松田優作、桃井かおり、奥田瑛二らが若者の息吹を伝え、時代の感性や反抗心を映していた。 ◇原爆を自家製造した理科教師 「太陽を盗んだ男」は、無気力な中学校の理科教師、城戸誠(沢田研二)が原子爆弾を造り、国家に対峙(たいじ)する挑発的な物語。城戸は茨城県東海村の原子力発電所に侵入しプルトニウムを強奪。自宅アパートで原子爆弾の製造に成功する。 城戸は警察に脅迫電話をかけ、映画前半で描かれるバスジャック事件で遭遇した、山下満州男警部(菅原文太)を交渉相手に指名する。自身を「9番」と名乗り、野球の試合終了までのテレビ中継や、ローリング・ストーンズ日本公演を要求した。 当時は8カ国が原爆を所有し、城戸は「9番」目の原爆所有者というわけだ。城戸はテロリストでも研究者でもない。原爆製造の目的は最後まで不明なままだ。要求するのは目先のことばかりでたわいなく、警察や国家権力が右往左往するのを喜んでいるだけ。城戸の行き当たりばったりの軽さと警察の深刻さのアンバランスが、アイロニーに満ちている。 ◇胎内被ばくが原点に 公開当時は原爆製造を描くことに対して不謹慎だといった批判も一部にあったようだが、製作者サイドは承知の上だったろう。根底には権力者への不信、社会や政治への批判精神が流れている。 警察はプルトニウム強奪で別人を誤認逮捕し、城戸の存在が分かっても世間に公表しない。権力者に「原爆を必要とするのは国家だけ」、山下警部に「どうせうちの政府は金をろくなことに使わん」と言わせて気概を見せる。城戸を通して、破壊的な力を持ちながら使い道のない原爆の根本的な矛盾を突き、シンプルにあざけり笑うのだ 長谷川監督は、46年1月に広島県で生まれた胎内被爆者だ。このことが本作のモチーフや問題意識の背景にあるのは確かだ。長谷川監督は、被爆2世の自分は早死にすると思い、生き急ぐもとになったと話している。 ◇コワモテでもカリスマ的存在感 長谷川監督は2本の監督作品でカリスマ的な存在感と実力を証明し、次作の話が浮かんでは消えを繰り返した。長年にわたって連合赤軍の映画の構想を公言し、分厚い脚本が届いたと話す監督もかなりいた。 東大時代にアメリカンフットボールをしていただけあって体も大きく、時々べらんめえ口調、いわゆるコワモテ。 筆者も最初に会った時は身構えながら話を聞いた。でも、映画や俳優のことになると急にやさしくなる。彼を慕う若者に囲まれていた姿も何度か見た。 残したのはわずか2本でも最大級の評価を受け、多くの監督や脚本家ら後の映画人に影響を与えた。「太陽を盗んだ男」は、18年に発表されたキネマ旬報の「70年代日本映画ベストテン」で第1位に選ばれている。 ◇娯楽要素も満載 「太陽を盗んだ男」には娯楽的な要素も満載だ。 映画冒頭、人気絶頂だった沢田が満員電車で押され、ドアに密着して見せる変顔。妊婦に変装して国会議事堂の女子トイレに入り込み、精製した金属プルトニウムのかけらを仕込んだ原爆の模造品を、警察を脅す材料にするシークエンスの大胆さ。 日本映画とは思えないほど派手な場面が続く。その多くはゲリラ撮影である。カーチェイスを一般道路上で展開し、渋谷の東急デパート本店屋上から5億円をばらまいて歓喜する群衆を撮影。ユーモアと爽快感にあふれたシーンが、随所にちりばめられている。 長谷川監督といえばゲリラ撮影である。1作目の「青春の殺人者」の撮影について、こんなことを話していた。 「撮影中の火の使用で製作の今村昌平監督が消防署に謝りに行き、ラストの屋外のセット撮影でスナックを燃やすシーンでは、周辺が大渋滞になった」。全編ロケ撮影。撮影の届け出など出さず、周囲の状況をそのまま取り込んだ。 主演の一人、原田美枝子は長谷川監督について「一番覚えているのはゴジ(長谷川監督の愛称)の引力。『走れ』とか『向こうに行け』とか迫力があって、みんなを引っ張っていく力、勢いがあった。自分に近い世代が中心になって作る映画に夢中になった。一緒に走った。ただ、ひたすら走った」と話していた。 長谷川の魂がスタッフ、キャストに乗り移り、全員が同じ方向に向かって映像に昇華された。 ◇「武骨でも直球を投げる」 一方で、長谷川監督の事前の調査や準備は徹底していた。「青春の殺人者」の基になった親殺し事件の裁判を何度も傍聴し、モデルの女性や友人に直接話を聞いた。 両親殺しはリアリズムで描き、ATGに代表される芸術志向の観念的表現を打ち破ろうとした。「理屈や論理性に陥ることなく、武骨でも直球を投げることに専念した」。長谷川監督はインタビューでこう語っていた。 同作の撮影エピソードをもう一つ。主演の順(水谷豊)が自殺しようとスナックにガソリンをまいて全焼するシーンで、水谷はギリギリのところで助け出され、半分気を失っていたという。 コンプライアンスなどかけらもない。今では考えられないが、その熱量たるや半端ではない。スクリーンはあらゆるものを映すと言われるが、長谷川監督らの熱気はそのまま映像になっている。 「太陽を盗んだ男」もしかりである。リアリティーを追求したエネルギッシュな撮影は、周囲の映像とともに作品の緊迫感を醸成させていった。 ただ、「ありえない」展開のご都合主義にも驚かされる。 城戸は一度警察の手に渡った原爆を奪回するために、ビルの高層階の部屋にターザンのように窓ガラスをけ破って侵入する。城戸と山下警部が原爆入りのカバンとともにビル屋上から落下しても、城戸は電線か何かにひっかかって無事。カバンも木の枝にぶら下がる。 そもそも、理論上は可能だとしても中学校の理科教師が自宅で原爆を造る過程は、たっぷり見せるほどにかえって不信感を禁じ得なかった。 ◇逃避行助けるDJ、昭和のデカ それでも「太陽を盗んだ男」は引力がある。その魅力は、城戸を取り巻く人物の造形にもある。 ディスクジョッキーの沢井零子(池上季実子)は「9番」の犯行を面白がり、聴取者と城戸をあおり立てる。城戸と観客を結ぶ橋渡し的存在だ。やがて彼の正体を知ることになり、城戸が少しだけ自分を解放する相手として後半の逃避行も伴走する。 思いつきの犯行を繰り返す城戸に対してラジオ番組を通じて要求を募集するシーンは、一般人のありがちな欲望を見せることで作品の裾野を広げた。原爆(所有)の意味のなさをことさら表現していた。 山下は職務に忠実で執念深く、“昭和のデカ”そのもの。正攻法で城戸を追い詰めるタフガイだ。心身ともに強じんで粘り強く、何度撃たれても簡単には死なない不死身の男。 山下は政府であり、権力者のメタファーにも見える。何度倒れても立ち上がってくる執念は菅原文太の独壇場である。 城戸は短期間に大量の放射線を全身に浴びて、髪の毛が抜け、歯ぐきから出血する急性放射線障害を発症する。原爆自体の恐ろしさの一面を見せつける。それでも、城戸は決して権力に屈しない。逮捕もされないし、死ぬこともない。 個人的推論だが、そうさせたくない思いが製作側にあったのではないか。本作のなりふり構わぬヒーロー的面白さの根幹の一つだろう。 核兵器は現在、世界に約1万2000発あると言われている。為政者たちは、“抑止力”としての原爆の必要性を主張する。 「太陽を盗んだ男」は、原爆の被害や世紀末論を唱えるのではなく、造ってしまった人間、保有してしまった人間のかすかな優越感や困惑を、ブラックユーモアで包み込んでいる。(鈴木隆)

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