「マリオの生みの親」として知られ、『ドンキーコング』や『ゼルダの伝説』なども手掛けたゲームデザイナーの宮本茂氏に文化勲章が授与されました。今や世界中の誰しもが知っているゲームタイトルを送り出し、現在も第一線で活躍する宮本氏。特に『スーパーマリオ』シリーズは、コンピューターゲーム分野を飛び越えて人類の文化に極めて多大な影響を与えました。今はゲームをプレイしていないという人も、子供の頃に『スーパーマリオブラザーズ』に熱中していた……ということは珍しくないはずです。そんな宮本氏ですが、我々の住む地球に文化的大変革を起こした「新産業の旗手」として全国紙に取り上げられるようになったのは、90年代の中頃から。つまり、『スーパーマリオブラザーズ』がセンセーショナルを巻き起こしていた80年代当時は、「知る人と知るゲームクリエイター」にとどまっていたということでもあります。それが、どのようなきっかけで宮本氏の業績が注目されるようになったのか。過去の新聞記事から探っていきたいと思います。◆80年代の全国紙はどう報じた?1985年9月13日。この日は世界の「遊びの文化」を永久に変えてしまう分岐点でもありました。任天堂がファミリーコンピューター向けソフト『スーパーマリオブラザーズ』を発売した日です。単純な操作ながら多彩なアクションが実装され、以後の横スクロールアクションゲームのコントロールフォーマットを確立。さらに、軽快なBGMは誰しもの記憶に残る名曲として今に語り継がれています。このソフト自体が、ファミコン以外のハードの存在感を奪うものでもありました。「テレビゲームといえば『スーパーマリオブラザーズ』」という連想を抱いている人は、現在も少なくないはず。当時の子供たちは、豪快なジャンプを繰り出すヒゲおじさんのマリオに夢中になりました。「無限1UP」等の裏技の発見も、マリオブームを後押ししました。ですが、そんなブームを大人はどう見ていたのでしょうか?あれだけのブームがあったのだから、当時の全国紙も大々的に取り上げているだろう……と思ったら、80年代当時の新聞がコンピューターゲームに関する記事を配信することはあまりなく、朝日新聞クロスサーチを使ってようやく見つけたのが以下の記事。子どもたちの間で爆発的な人気を呼んでいる「任天堂」(本社・京都市)のファミリーコンピュータのソフト「スーパーマリオブラザーズ」の偽物を大量に製造、現金卸問屋に売り込もうとしたグループを捜査していた埼玉県警防犯課と朝霞署は三十日、主犯格の同県(筆者注・被疑者の名前)を商標法違反の疑いで逮捕した。(超人気当てこみで五千個 TVゲームソフト 埼玉で偽造団摘発 朝日新聞1986年1月31日 東京朝刊)つまり、『スーパーマリオブラザーズ』のあまりの人気のせいで海賊版ソフトも生み出している……という内容です。なお、この1986年には「スーパーマリオ」を名乗る二人組が雪印乳業(当時)に「製品に毒薬を入れる」と脅迫して1000万円を要求する事件が発生しています。このようなきっかけがない限り、全国紙ではコンピューターゲームのことは記事になりませんでした。◆きっかけは90年代の「TVゲーム戦争」そうした流れが大きく変わったきっかけがあります。そのきっかけとは1995年、スーパーファミコンの後継ハードが出始めた頃の「TVゲーム戦争」の勃発を指します。それまではTVゲームといえば任天堂一強、ゲーム好きの大人がPCエンジンやメガドライブを購入するという状況でした。それが3Dグラフィックの描写を前提にしたソニーのプレイステーションの登場により、市場に大きな地殻変動が訪れます。それに負けじと、任天堂は1996年にNINTENDO 64を市場に送り出します。ここに来て、コンピューターゲーム市場がかつてのシャープVSカシオの電子計算機戦争のような状況になっていることに全国紙の記者が気づきました。経済的意義がある、と認識されるようになったのです。以下は1996年11月25日に朝日新聞が配信した、宮本氏のインタビュー記事。デジタル技術の発展で遊びの枠組みが変わりつつある。隆盛を誇るテレビゲームはもちろん、映画、音楽など旧来の娯楽作品にも変革の波が押し寄せている。(中略)「スーパーマリオ64はハイテク版のマリオネット(操り人形)。新しいゲームでなく、新しい遊びなんです」初代「スーパーマリオブラザーズ」を生み出して十年。最近は監修者の立場だったが、久しぶりにゲーム作りに一からかかわった。開発が本格化した一年半の間、帰宅は明け方。家族は寝静まり、「友達は、少し前から息子と飼い始めたハムスターだけ」だった。(中略)マリオへの高い評価と裏腹に、それを動かす任天堂の新型ゲーム機はソフトの種類が不足しているといわれる。マリオの完成度の高さが、逆に、続くソフトへの高山として立ちはだかっているようにもみえる。「焼き直しならソフトはいくらでも出せます。新しい遊びを追求するゲームを待ってるんです。新しい機械の出初めはプログラマーにとっても、とまどいの時期。マリオも三年もすれば『こんなチープな作りだったんだ』なんてことになると思いますよ」(遊びの開拓者:上 朝日デジタル・エンターテインメント大賞から 朝日新聞1996年11月25日 夕刊)当時の宮本氏が何を考え、何について苦悩していたのかが伝わる名記事ですが、一方で10年前のゲーム業界に対する新聞社の態度とはガラリと反転している点も見逃すことはできません。これは、10代の頃にファミコンで遊んでいた世代が大学を卒業して新聞記者になったからの現象……と考えることはできないでしょうか。或いは、80年代当時は子育て中の親だったため、『スーパーマリオブラザーズ』が子供たちにどれだけの影響を与えていたのか熟知している人物が筆を執っていたり、担当デスクを勤めていたとも解釈できます。◆かつての子供たちの影響力この流れは、宮本氏の開発したゲーム作品に熱中していた子供たちが大人になり、我々の住む国やその空間に対して一定の発言力を持つようになる過程を表すものでもあります。マリオやリンクの「子供たち」が成長し、子供の頃の自分たちの遊びは素晴らしいものだったと主張することができるようになりました。そうした経緯の上を我々が今でも歩いているとしたら、それは「人間の進化」と呼ぶに相応しい事象ではないでしょうか。我々は、宮本氏が作ってくれた道をこれからも歩き続けるはずです。