「茨城のレコード屋だった男」が”デビュー前のマドンナ”とわずか「240万円」で契約…電通にも博報堂にも頼らない「常識外れ」な天才プロモーターの伝説

皆さんはある日、会社から「アメリカのスーパースターを日本に呼んで!」と命じられたら、どうするだろうか。どうするもこうするも、どうしていいのかわからないので「電通や博報堂に相談するか」となるのが常識人、つまりは凡人である。 では非常識な人間だと、どうか。 康芳夫という人がいた。彼は1972年、ボクシング界のスーパースター、モハメド・アリを日本に招いて、ノンタイトル戦だが武道館での興行を実現した人物だ。 きっかけは1964年、弱冠22歳で世界チャンピオンとなるアリ(当時はカシアス・クレイ。後にイスラム教徒に改宗し、リングネームを改める)の試合のテレビ中継を見て、康は彼を日本に呼びたいとの衝動に駆り立てられるようになる。だがボクシング界との人脈もなければ、興行を主催するテレビ局や広告代理店などの後ろ盾もなになかった。 そんな康がどうやってアリの来日興行を実現したのか。 イスラム教徒になったのだ。 アリのもとに世界中からオファーが殺到するなか、どこの組織にも属さないアジア人など相手にされるはずはない。だがムスリムのルートを使えば話は別だ――康はそう考えた。実際、そのネットワーク経由でアリへとたどり着くのだった。(以上の康芳夫の逸話は『虚人のすすめ』集英社新書を参照した)。 常識はずれ、これが「呼び屋」の才能だ。これぞと惚れ込んだスターを日本に呼ぶために「そこまでするのか」と凡人が呆れるほどのことをやってのけることで、不可能を可能にするのだ。 「呼び屋」とは、海外のミュージシャンなどを興行の目的で日本に招くプロモーターのこと。これは、「一億総白痴化」(テレビの低俗さの喩え)や「男の顔は履歴書」などの言葉を生んだ昭和期のジャーナリスト、大宅壮一の造語である。ソ連のボリショイ・バレエ団などを日本に招くなどした神彰(「悪女について」「青い壺」などの小説家・有吉佐和子の夫でもある)を称するのに造ったのである。 本稿の主役、宮崎恭一もそのひとりだ。彼の著書『呼び屋一代 マドンナ・スティングを招聘した男』(講談社+新書)は、半世紀にわたってショービジネスの世界を生き抜いた者の戦記である。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加