ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(121)

他の邦字紙は、州警察の新聞検閲課から、この事件に関する記事の掲載を翌月まで禁じられた。さらに取り消し運動は反国家的行為であり、これに加担する者は処罰の対象になる、と脅された。 何故こういうことになったのか──。 追放命令には「三浦鑿が国家公安上、有害な人物」という意味のことが書かれているだけで、具体的には明示されていなかった。 が、三浦の書いたブラジル政府・軍部の批判記事が利用されたこと以外には考えられなかった。 しかし、その批判記事は、それほど過激なものではなかった。誰かが、それを意識的に政府・軍部を刺激する様に翻訳、州警察の新聞検閲課に告発したのである。 ここで、その告発者として、まず疑われたのが、前回の追放運動で動いた反三浦派である。 しかし、どうであろうか。前回は、中島総領事という権威を利用できた。しかし失敗した。当然、懲りていた筈である。今回は、そういう権威もいなかった。 なにより、最初に三浦排撃運動を起こしてから十数年経っていた。しかも一九三一年の国外追放の失敗から八年という空白があった。 人間は、そんなに長く一つの感情を維持できるものではない。維持できても薄らいで行く。彼らの殆どが、この二度目の追放工作に、積極的に関与した形跡もない。関与したとしても脇役であったろう。 しかし一人だけ、ハッキリそれと判る形で、張り切って走り回っていた男がいた。岸本次男である。 岸本は三浦逮捕の現場では、警官たちの中にその姿があった。指揮をとっている様に見えたこともあるという。さらにブラジル時報を訪れ、三浦の追放は当然のこと││と主張、それを記事にさせ、追放取り消し運動を牽制した。 その変態的嗜虐趣味で、またも三浦追放を謀ったのだ。サデズムでやったのだから、八年の空白があっても、やる気の薄らぐことはなかったであろう。岸本は、依然、州警察に食い込んでもいた。 それと前回は失敗したが、今回は周囲の状況が変っていた。ヴァルガスがナショナリズム色強烈な新国家体制の構築を進めていた。日本語学校を閉鎖、日本語新聞を締め付けていた。そういう状勢の中で、この三浦追放、日伯新聞の発行禁止が行われている。 状勢を観て、岸本のサデズムが鎌首を持ち上げたのであろう。今回は、州警察が三浦を呼んで言い分を聞くことはなく、一方的にことは進められた。それができる様に、法令や州警察内の空気が変化してもいた。 追放された三浦は、欧州で翌年まで暮らしている。彼は元英語教師だったから、語学は達者であった。それと、追放されるまでは、日伯新聞が全盛期だったから、経済的にも豊かだった。観光旅行を楽しむ様な気分でアチコチ旅行して歩いたという。その後、日本へ向かった。 以後については別章に譲る。 一九四〇年、ブラ拓の銀行部が南米銀行と改称した。カーザ・バンカリア(小銀行)からバンコ(銀行)へ昇格した。急速に事業量を拡大させていたのである。 一九四一年、水野龍がまたしても、人を驚かす行動に出た。八十二歳という高齢になっていたが──ということは、現代なら百歳以上に見做さねばなるまいが──造成中の植民地の資金繰りのため、またも訪日したのである。 なんとも元気な老人である。これも、その後については別章で…ということになる。 同じく四一年、『ブラジルに於ける日本人発展史』の上巻が日本で発行された。戦後出た下巻とともに、今日では貴重な資料となっている。 付記しておけば「邦人社会」の同意語として、一部で「コロニア・ジャポネーザ」、略して「コロニア」が使用されるようになったのは、この戦前末期の頃である。邦字新聞のスポーツ関係記事に使われ始めている。 なお、笠戸丸以来の移住者総数は一八万人を数え、ブラジル生まれの子供を加えれば二〇数万と見積もられていた。

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