神の花嫁たちの選択──「真理の友教会」女性信者7人は、なぜ集団自殺を遂げたのか

1986年秋、和歌山県の浜の宮海岸で、7人が焼身自殺を図った。その多くはある宗教団体内で「神の花嫁」と呼ばれる女性たちで、教祖の死に続くように命を絶ったのだった。この出来事は、宗教が人々の極端な選択にどのような影響を及ぼし得るかを浮き彫りにした。2025年、オウム真理教による地下鉄サリン事件、麻原彰晃の逮捕から30年が経過し、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)への宗教法人法に基づく解散命令が話題となる中、約40年前に起きた集団自殺事件を振り返ってみたい。 <前編/後編の前編> ※文中敬称略 ■教祖・宮本清治という人物 1950年前後の日本社会は戦後復興の途上にあった。経済や都市インフラはなお不安定で、生活基盤の回復には時間がかかっていた。当時は、各地で宗教活動の活発化が進んだ時期でもある。1945年にGHQが国家神道と神社神道を分離し、国家が神道を支援・保護することを禁じる「神道指令」を発令。さらに、1947年の日本国憲法制定以降、信教の自由が制度的に保障されるようになったためである。新たに届け出を行う宗教団体の数は急増。戦後の混乱と価値観の変化の中で、精神的な支えを求め、多くの人々が新たな信仰に惹かれていった。「真理(みち)の友教会」もそんな時代に生まれた。 「真理の友教会」の開祖は宮本清治という男性である。1923年(1924年説も)に和歌山県で生まれた宮本は、1939年に高等小学校を卒業すると、当時の国鉄に就職。1976年に退職するまで約40年にわたり鉄道業務に従事した。戦後間もなく結婚したが、のちに離婚。その間の1950年、和歌山市紀三井寺を拠点に「真理の友教会」を創始し、1952年に宗教法人格を取得している。 教団は、天地創造の神エホバ(ヤハウェ)を主神とし、「心の清浄」と「死後の天国での救い」を説いた。しかし、明確な教典は存在せず、宮本の言葉そのものが教義とされた。つまり、宮本清治という個人の存在が極めて重要だったのである。キリスト教系の新宗教と分類される一方、集会所には観音像や地蔵が置かれ、仏教的要素も取り入れられていた。宮本は、自身の離婚後に信者の女性、その子ども(のちに宮本と結婚)と同居した。そして、悩みを抱える知人に対し、祈祷や手かざし(加持)で病気の緩和を試みたり、霊的な助言を与えたりした。徐々に信者を集めていき、国鉄職員としての安定収入を得ながら、宗教指導者としての影響力を強めていった。 ■教祖と「神の花嫁」たち──小さな教団の構造 1970年代後半、宮本清治は国鉄を退職し、和歌山市毛見の浜の宮海岸近くに居を移した。以後、教団の活動は同地を拠点に行われるようになった。そこは同時に、教団の運営実務を担う信者たちの生活の場でもあった。特に、妻やその母、教団内で「神の花嫁」と呼ばれる未婚女性5人が、宮本の身の回りの世話や教団の運営を担っていた。また、教祖の教えを日々の生活の中で実践し、信仰の模範として他の信者たちから特別視されていた。 この女性たちのなかで4人が各自職業を持ち、その収入と宮本の年金などを持ち寄って平等に配分していた。3人が銀行などの金融機関に勤務し、1人は一部上場企業のコンピュータープログラマーと、いずれも堅い職に就いていた。また、休みの日には奉仕活動に勤しみ、事件現場となった海岸や、信者宅の屋内外を掃除していたという。宮本は女性たちに出産を禁じ、化粧や派手なファッションも好ましくないとした。宮本自身、ぜいたくな暮らしはしていなかったようだ。 組織としての体制は小規模ながら、信者は和歌山市や海南市を中心に定着し、ゆるやかに形成されていった。信者数は、多い時期でもおよそ80人から120人程度とされる。ただし、その多くは宮本の親族であり、教団は親族共同体的な性格を帯びていた。外部に向けた布教活動はほとんどなく、信者の入れ替わりも少なかった。 ■教義そのものだった教祖の死 1980年代を迎え、戦後復興期はすでに遠い昔となる。宮本は年齢を重ねながらも教団内での立場を保ち続けた。明確な後継者はおらず、教義の体系化もされないまま、教団は教祖の個人的なカリスマ性に依存する形で存続していた。そうしたなかで、教団にとって大きな転機が訪れる。教祖・宮本清治の死である。 【後編】では、神格化された教祖が去った後、「神の花嫁」らが選んだ衝撃的な行動について追っていきたい。

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