「イギリスで最も成功していないグランプリドライバー」 『Car』誌の1992年8月号には、見開きの右側のページに、そういう見出しが踊っていた。そしてその逆のページには、ひとりのレーシングドライバーの姿があった。ペリー・マッカーシーである。 この企画記事では、幾多の困難を乗り越えながらも、ついにF1に辿りついたドライバーの姿が描かれていた。もっとも彼が契約したのは、F1の歴史上でも最低のチームと揶揄される、アンドレアモーダだったのだが。 そして『Car』誌の9月号が発売される頃には、マッカーシーは彼にとって最後となるグランプリ・ウィークエンドに臨んでいた。 とはいえその時点では、彼にはまだ一筋の光明があった。マッカーシーにはたくさんの友人がいたのだ。大勢だ。彼の支援者たちは、彼の「やればできる」という姿勢を高く評価した。それまでの成績は、さほど気にしないだろう。 この記事を書いた故ラッセル・バルジンも、その支援者のひとりだった。 「マッカーシーを支援したのは、彼が並外れた才能の持ち主であり、次のアイルトン・セナになると思っていたからではない」 バルジンはそう書いている。 「彼を助けたのは、彼だけが電話をかけてきて、声をかけてくれたドライバーだったからだ」