ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(292)

下元は脅迫状を三度受け取り、当人もヤラレル覚悟で日々を過ごし、下着は毎日ヨゴレの無いものに取り換えていた。実際に襲撃者が組合のすぐ傍まで来て、警備中の警官に逮捕されたこともあった。緊張の日々が長く続いていた。 宮腰、藤平、森田も狙われたことがあった。 宮坂は、学生時代は柔道や相撲の選手で、血の気が多く、壮年になっても喧嘩早かった。右の話の頃は、闘争心はまだ失ってはいなかった筈である。それが、これだけのことを言われても、まぶしげに下を向いていたという。 何故なのか? 宮坂は戦前、ブラ拓に銀行部(カーザ・バンカリア)をつくった時、日本本部の平生釟三郎理事長から、 「銀行は命がけの仕事、その覚悟があれば、やってもよろしい」 と釘をさされ、それが実際、命をかけても再建せねばならなくなっていた。 そのためには、認識運動に目を瞑って、戦勝派から株主を募らねばならなかった。人から何を言われても、じっと我慢して、株券を売らねばならなかった…のである。 この人は、一九三一年、サンパウロに着任以来、ブラ拓のトップとして、一見華やかな存在であった。しかしながら、排日法で事業の新展開を阻まれ、戦争でブラ拓は清算命令を受け、南銀は人手に渡してしまった。 その苦しさ…そして南銀の再建に取りかかれば、この屈辱…。 堪え難かったであろう。 南銀は、以後も増資を繰り返した。が、配当はインフレを下回り、株価は実質目減りという時代が長く続いた。 それでも株主の多くは増資に付き合った。「自分たちコロニアの銀行」という意識が育ったことによる。 文字通りの起死回生であった。 このブラ拓より酷かったのが海興である。 ここは、起死回生もならなかった。戦時中に接収され競売に付されてしまった資産は、無論、戦後も戻って来ることは無かった。 そして東山は開戦後、農場と銀行部のみとなっていた。 その農場は接収の危機に見舞われた。幸い総支配人山本喜誉司らの努力により、回避できた。 しかし終戦直後、再び接収の候補地にされてしまった。 州政府が、オランダから百家族の移民を受け入れ、乳牛の飼育地を造ろうとしており、その用地に東山農場を選んだのである。 一難去って、また一難であった。 これを阻止すべく山本は政界、農業界の有力者を動かして、首都リオ・デ・ジャネイロのヅットラ大統領に訴えた。 大統領は特使を農場へ派遣、調査を行った。その結果、接収は中止された。一九四八年のことである。 危うく二度目の危機から脱したわけだ。 銀行部は戦時中、業務を制約され半ば休業状態となっていた 戦後、再建に十年努力、一九五五年に増資、株式会社に改組、カーザ・バンカリアからバンコに昇格した。東山銀行である。 戦時中、休業していた商事部門のカーザ東山も復活した。 一方で、山本は蜂谷商会の蜂谷専一たちと、日系関係の資産凍結解除運動を行っていた 一九五〇年に部分的解除が実現、以後も続いた。 御三家以外 御三家以外の再出発に話を移す。 開戦時、日本からの進出企業は十数社あった。 内、商社は閉鎖、日本からの派遣員は引き揚げた。 終戦後、一九四九年に、日本から貿易使節団が来伯、その二年後、未だ国交回復前であったが、兼松が事業を再開した。 回復後は三井物産、丸紅飯田、三菱商事、日商、伊藤忠…と後年総合商社と呼ばれる各社が続いた。 しかし開戦前に在った中小の商社は続いていない。理由については資料を欠くが、再進出は難しかったのであろう。 商社のほかに拓殖事業を営んでいたところもあった。 パラナ州北部バンデイランテスの野村農場は、開戦時に農場を貸したブラジル人と、終戦後、係争となり、それは長く続いた。 一九五二年、貸与契約の終了期限がきて、係争は終った。ところが、それで救われたというわけではなかった。 農場は州政府農務局の監査下にあったが、その役人たちがこれを接収、競売に付し、仲間が二束三文で手に入れる…という策略が進んでいたのである。策略は殆ど完了、後は書類上、大統領の署名を待つだけとなっていた。 それを察知した農場側は、親交のあったシリア系のエリヤス・デフネという弁護士に依頼、大統領に訴えた。大統領は署名を見合わせた。 東山農場と同様、大統領を動かしたのである。 農場は野村側に返還された。 サンパウロ州西部アヴァニャンダーヴァのバーラ・マンサ農場は戦時中に接収され、競売に付されてしまった。終戦後も戻ってくることはなかった。 北パラナ、ウライの南米土地会社の植民地は、既述のトラブルを経て、藤平正義に経営が託された。 が、間もなく事業を終了している。事情については資料を欠くが、土地の分譲が終了したためであろう。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加