「企業っていうのはなあ、本当にきったねえんだぞ」 伊藤忠・丹羽宇一郎さんが記者に語った言葉の真意

伊藤忠商事の社長、会長を歴任し、民間出身として初の駐中国大使を務めた丹羽宇一郎さんが亡くなった。バブル崩壊で膨らんだ同社の不良資産を、社長就任後に一気に処理してV字回復させた。公表されたのは1月8日。86歳だった。当時の注目度に比べ、メディアの報道はあっさりしたものだった。現役を退いて長い。勲章も辞退した人だ。 * * * 故人の強い遺志で「お別れの会」も行わないという。 私が丹羽さんを取材していたのは2000年代初頭だ。雪印食品による牛肉偽装事件が02年1月に発覚し、雪印乳業グループが経営危機となった。スポンサーとして浮上したのが伊藤忠だ。 「雪印は日本の宝だ」。丹羽さんは積極的にそう発信した。乳製品では圧倒的なブランド力を持つ。ほかの企業との水面下でのさや当てが続いた。 夜は報道各社が丹羽さんの自宅に押しかける。一対一では話せない。私は朝の取材に切り替えた。丹羽さんは朝、電車通勤をしていた。1999年度決算の期中で、約4000億円の巨額損失を計上した。「こんな状況で社長が偉そうに車で通勤するわけにはいかんだろう」と話していた。 丹羽さんの自宅は神奈川県にある。最寄り駅から4つ目の駅で急行に乗り替える。ドアがあくと小走りで席を確保する。経済界の大スターだったが、普通のオジサンといっしょだった。 1時間ほどの車内で丹羽さんは本を読んでいた。私は新聞各紙をチェックする。 電車の中では話しかけない。誰が聞いているかわからない。記者としてのマナーだ。 途中に乗り替えて、伊藤忠の本社下にある銀座線の「外苑前」につく。電車から吐き出された時に少し話す。一般的なことのやりとりが続いた。 結局、伊藤忠は雪印乳業(現雪印メグミルク)に出資、有力な物流子会社も手に入れることになる。 記者には優しかった。1998年に社長になり、自宅の玄関脇に記者部屋をつくった。夜は黒塗りのセンチュリーで帰宅する。記者がいると記者部屋に通す。奥様がお茶を出す。雑談ばかりだが相手はしてくれた。 「オレはな、実は新聞記者になりたかったんだ」と話していた。だから、可能な限り、記者の相手をしてくれたのではないか。名古屋大時代は学生運動に注力した。母親似で正義感は強かったらしい。

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