スペシャルドラマが計4回、前日譚にあたる連続ドラマを経て、Netflix映画『教場 Reunion』と連なるシリーズ初の劇場用映画となった『教場 Requiem』。“Requiem”――すなわち鎮魂歌、死者の魂を鎮めるという意味合いの単語がタイトルに選択されている以上、それに相応しいような物語が展開すると想像できるわけだが、実際のところ、驚くほどこれまでのシリーズ作と変わらない『教場』であった。 それが良いことなのかどうかは観る側の価値観に委ねられるだろうが、少なくとも、あらかじめ銘打たれていた“終着点”や“完結編”という文言にはいささかの疑問が残ることは否めない。 ※本稿は物語の結末に触れています まずは2部作の前編にあたる前作『Reunion』を簡潔におさらいしておこう。描かれるのは神奈川県警警察学校の初任科短期課程第205期の物語であり、スペシャルドラマ版『教場II』(フジテレビ系)で描かれた第200期からは約2年半の月日が流れている。例によって学生たちの抱えた秘密や問題に風間(木村拓哉)が目を光らせ、退校届を突きつけ、前編だけで3名が警察学校を去る。しかしながら、指の欠損という秘密を隠していた笠原(金子大地)にだけは温情をかけるかのように“共犯者”として目をつぶるのである。 そうした『教場』の様式美をたどっていく一方で、これまでのシリーズに登場したかつての教え子たちは、風間の因縁の相手である十崎(森山未來)のゆくえを追う。そのなかで判明するのは、以前十崎が逮捕されて刑に服しているあいだ、風間は彼の妹で視覚に障がいを持つ紗羅(趣里)の世話をし、かえって十崎から恨みを買ってしまったこと。そして、そんな紗羅が、何者か――スペシャルドラマ版『教場』(フジテレビ系)で描かれた第198期においてドロップアウトした平田(林遣都)によって連れ去られるところで幕を下ろした。 おそらく今回の『Requiem』における最大の違和感は、『Reunion』で布石を打っていたはずの“風間の教え子たちが立派な警察官となり、恩師の宿敵を追い詰める”というダイナミックな大団円を選ばなかったことだろう。先述したように、蓋を開けてみれば“いつもと変わらない『教場』”。『Reunion』から引き続き、第205期の学生たちが引き起こす(あるいは、引き起こそうとした)問題に終始し、ようやく終盤に差し掛かったころ――それも卒業式というタイミングで氏原(倉悠貴)をめぐる一件で“教場外”へのドラマへとつながる。風間が警察官に相応しい者を教え育てるという動作を完遂してはじめて、物語が次のフィールドへ動けるというわけだ。 とはいえ十崎との因縁については深掘りされることはなく、風間がかつてドロップアウトさせた教え子からの逆恨みが描かれることに終始する。退校届のルサンチマンと呼ぶべきか、はたまた風間自身の信念の功罪とでも呼ぶべきか。そもそも警察官に相応しいかどうか以前に、人間として極端な者たちが多数描かれてきたこのシリーズ。それでも彼らの行ないは一貫して周到かつ狡猾に知性を発揮するものであり、平田も以前はそんな一人だったはずだ。だが今回の平田の振る舞いは、すっかり知性が欠如した、さながら『ジョーカー』のような他責思考の怪物へと墜ちてしまっているのである。 要するに、本来であれば“千枚通しの怪物”たる十崎との対峙を描くべきところに、突発的に別の怪物が割り込んで物語をかき乱したといったところだろう。壇上で風間と平田のあいだに降り注ぐスプリンクラーの豪雨は、まぎれもなく遠野(北村匠海)が襲撃された夜を想起させる。だからこそ、そこで風間の前にいるべきは十崎であったと言わざるを得ない。風間公親という存在を徒に紐解くことをしなかったのは正しいが、これで“完結編”にされてしまってはどうしても物足りなさが残る(そういった意味で、明らかに続きを作る気満々のラストだったことは大歓迎である)。 もっとも、こうした違和感も物足りなさも、仕切り直しの卒業式での一幕で多少は溜飲が下がるかもしれない。風間は門田(綱啓永)に対し「警察学校とはどんな所だ?」と、『Reunion』の序盤で彼に投げかけた質問を再び向ける。その際に門田は「警察官を育てるところでは……」と語尾が曖昧な状態で答えていたが、今回の問いかけには「自分が何者なのかを知る場所」とはっきりと答えるのだ。 「自分が何者なのかを知る場所」からドロップアウトした平田が自分自身を見失い、卒業して警察官になったかつての教え子たちは、自分が何者なのかを知った上で、その“何者”になるために奮闘を続ける。結局は誰しもが、どの場所にいても自分が何者なのかを探しつづけ、そこに向かっていかなければならない。警察学校という空間がその一端を担うための場所であるならば、風間もまた、自分が“何者”であるかを模索しつづけている一人なのである。