【追悼】東京地検特捜部元検事・堀田力弁護士が語った「ロッキード事件」捜査秘話 「捜査はどこまでいくのか、いつやるのか」田中元総理逮捕の1か月前に掛かってきた電話の主は… 平成事件史(21)

戦後最大の疑獄と言われたロッキード事件。その捜査に携わった元特捜検事・堀田力弁護士(13期)が11月24日に亡くなった。享年90。 緻密で鋭い追及は「カミソリ」の異名で知られ、同事件ではアメリカ側との交渉の末、捜査資料の入手に成功し、田中角栄元総理の逮捕という一大局面を切り開いた。 30年に及んだ検事生活。だが、1991年、定年を待たずして57歳で退官、弁護士となって福祉事業やボランティアの世界に身を投じた。 筆者が司法記者クラブ詰めになったのは、堀田弁護士が退官した翌年のことだ。 以降、折に触れて取材を重ね、たびたび番組にも出演いただいた。 その堀田弁護士の事件解説は、厳しい論評の中にも、現場への深い理解と熱いエールが込められていた。 感謝と追悼の意を込め、過去の取材やインタビューを紐解き、“カミソリ堀田”の足跡をたどる。 ■「児玉ルート」の捜査のゆくえ ロッキード社の航空機売り込みをめぐる疑惑には、ロ社から日本の「政府高官(大物政治家)」に流れたとされる3つのルートがあった。 このうち、最大の金額である「21億円」が渡ったとされる先は“政財界のフィクサー“と呼ばれた黒幕・児玉誉士夫だった。 東京地検特捜部は事件発覚から1か月後の3月4日、国会の証人喚問に応じないまま、自宅で療養していた児玉への臨床尋問に踏み切った。 臨床尋問を担当したのは“ミスター検察”と呼ばれた異色の工業高校出身、松田昇検事(15期)だった。東京・世田谷区等々力の児玉邸に出向き、妻と主治医の立ち会いのもとで児玉と向き合った。 数回にわたる取り調べの結果、児玉はロッキード社からカネを受け取ったことを認め、これを税務申告していなかったことも自白した。 当時の関係者によると、児玉は自宅の和室に敷かれた布団に、あおむけに寝たきりの状態だったが、松田が供述調書を読み聞かせた上で、「これはあなたにとって不利な証拠ですが、サインしますか」と聞くと、「します」と同意したという。 ところがなかなか書いてくれない。しばらくして児玉はこう言った。

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