戦国時代、奈良町の住民による殺人や自殺が多発。原因は借金苦だとして金融業者が処分されたが、背後には「豊臣兄弟」の思惑があった……。奈良大学が8月末に奈良市で開いた公開講座で、河内将芳(かわうちまさよし)教授(日本中世史・文化史)が、そんなミステリーのような事件を紹介した。 河内さんが「秀長死後の奈良でおこった一事件―奈良借、ならかし―」と題して行った講演によると、大和(今の奈良県)領主の豊臣秀長が郡山城で死去した天正19(1591)年、奈良町の住民による殺人や一家心中、自殺などが多発。借金苦が原因とされ、関白・豊臣秀吉の指示で借金は帳消しとなり、高利で金貸しをしていた金融業者らが逮捕された。 翌年には、金融業者の背後に秀長が任命した南京(奈良町)奉行がいたことが発覚、奈良町住民が大坂の豊臣政権に直訴した。当時の興福寺僧の日記には「ことごとく町民が勝った」とあり、奈良町側の記録を読むと、事件は町民の勝利で終わったように見える。 しかしその後も南京奉行は解任されず、地位にとどまり続けた。様々な史料を総合すると、南京奉行と金融業者による奈良町住民への強制的な高利の貸し付けは「奈良借(かし)」と呼ばれ、領主の秀長も関与していたことが明らかだという。秀長の死後は、秀吉がその利益を「朝鮮出兵」の費用に充てており、奈良借が豊臣政権ぐるみで進めた政策だったことも分かる。 河内さんは「豊臣政権は新たに建設した郡山城城下町へ商工業者の移住を促進するため、奈良町に負担を強いたのだろう」と推測する。その後、徳川幕府は奈良町を直轄領とする政策に転じ、奈良と郡山はそれぞれ発展を遂げていった。 春日大社や興福寺などの寺社勢力とは良好な関係を結んだ秀長だが、「奈良町の住民にはよく思われていなかったのでは」と河内さんは指摘している。(今井邦彦)