ミャンマー軍事政権が首都をヤンゴンからネピドーに移してから、約20年が経過した。最大20車線の道路や豪華な施設を備え、建設費は6300億円ともいわれるが、街には人影がまばらだ。2025年3月の大地震では庁舎や職員住宅が大きく損壊した一方、軍の元幹部らが暮らす豪邸の被害は軽かったと海外メディアが報じている。巨費を投じた首都で何が起きているのか――。■ミャンマーの首都を襲った大地震 病院の救急外来の入り口。崩れ落ちたコンクリートの庇に、乗用車が押しつぶされている。建物の外には、負傷者がずらりと並んで横たわる。 2025年3月28日の午後、ミャンマーの首都ネピドー。マグニチュード7.7の地震が襲った直後の、1000床規模の公立病院での光景だ。痛みに身をよじる人に、ショックで動けずにいる人。血と粉塵にまみれた人々が、車や担架で次々と運ばれてくる。「こんな光景は見たことがない。もう疲れ果てた」と、医師はAFPの記者に語った。 病院には、軍事政権を率いるミン・アウン・フライン上級大将が姿を見せた。負傷者を見て回り、救援の指揮をとろうとするが、その顔には動揺がありありと浮かんでいる。AFPのカメラがとらえたのは、めったに人前で見せることのない素顔だった。 軍政の中枢が置かれたネピドーは、震源から南へ約250キロ。築20年ほどの新しい要塞都市は、これほどの地震にも持ちこたえる数少ない街の一つと見られていた。それでも地震から1週間後、首都の死者は511人と公式発表された。全国で、第2の都市マンダレーの2053人に次ぐ多さだった。 住民の見立てでは、庁舎と職員住宅の約8割が被災したという。個々の建物が崩れた原因は、特定されていない。ただ、建設に携わった技術者は、工事でセメントを減らし、浮いた分が利益になっていたと、ミャンマー専門英字誌のイラワジーに語っている。■街を撮影しただけで禁錮3年 軍政は天然ガスで得た資金をつぎ込み、国民の生活圏から遠い内陸にネピドーを築いて、首都に定めた。軍政と、軍とつながりのある企業の癒着で建設された街は、地震のはるか前から人の気配に乏しく、米ワシントン・ポストによれば、訪問者は決まって「ゴーストタウン」と呼ぶという。 2005年11月6日、当時の軍事政権トップ、タン・シュエ上級大将は、前触れもなく首都を最大都市ヤンゴンから移した。移転先は、ヤンゴンの北300キロあまり。旧首都からは、東京―名古屋間ほど離れている。水田とサトウキビ畑が広がる土地に、一から造り上げられた街だ。建設は極秘のうちに進められた。国境なき記者団によると、2006年には、街を撮影したというだけで、写真記者など2人が禁錮3年を言い渡されている。 軍事政権は、国土の中心に近いこの地から国を治めるためだと説明した。だが、ミャンマーの独立系ニュースメディア、ミャンマー・ナウは論評で、本当の理由はいまもはっきりしないと指摘している。当時の軍事政権は、国際社会の目を逃れたかったとも、米軍が海から攻め込んでくることを恐れたともいわれる。 一定の説得力があるのは、蜂起説だろう。人権活動家のベネディクト・ロジャーズ氏は、遷都は民衆の蜂起から身を守るためだったとみる。この見方に沿うように、ロンドンの調査報道センターでフェローを務めるマット・ケナード氏らは英ガーディアン紙への寄稿で、街が用途ごとの区域に分けられ、人が集まれる広場がないのは、おそらく意図的だったはずだと指摘している。国民の暮らしを守るはずの行政が、国民と対立する構図だ。