1976年、日米を揺るがす戦後最大の疑獄が幕を開けた。 ロッキード社は、世界トップクラスの軍用機を主体とするメーカー。アメリカの「CIA」とも繋がりが深く、「CIA」の偵察機や米軍の航空機などを製造していた。 東京地検特捜部が当初、狙いを定めたのはロッキード社の秘密代理人で、政財界のフィクサー、黒幕の児玉誉士夫に流れた「21億円」だった。この「21億円」は、軍用機である対潜哨戒機「PC3」の売り込み工作のために政治家に流れたとされ、児玉と深い関係にあった防衛族で、自民党幹事長の中曽根康弘の名前も浮上していた。 しかし、最終的に「児玉ー中曽根ライン」の捜査は不発に終わった。 理由のひとつは、児玉本人の病気と、ロッキード社の交渉に立ち会っていたキーマン福田太郎通訳の死去であった。 国会は児玉に「証人喚問」への出頭を求めたが、児玉の主治医だったK教授は「脳梗塞の後遺症がある」と拒否し、「証人喚問」は実現しなかった。 ところがーー事件から25年後の2001年、事態は急展開する。 児玉の主治医だったK教授の部下の医師が、ある月刊誌に衝撃の手記を寄せたのだ。そこで児玉の診断が、実は「虚偽」だった疑いが明らかになったのだ。 筆者は部下の医師と面会し、当時の生々しいやりとりを聞くことができた。 さらに、詳しく事情を知る国会関係者も口を開きはじめた。 児玉が「証人喚問」を免れたナゾそれは長い時を経て、ようやく解き明かされつつあった。 (20)(21)(22)に続いて、堀田弁護士追悼の4回目はロッキード事件の最終回としたい。 「本命」とされたロッキード社の対潜哨戒機「P3C」輸入をめぐる「児玉ー中曽根ルート」の捜査はなぜ見送られたのだろうか。 その舞台裏で繰り広げられていた攻防の一端を描く。 ■児玉誉士夫の口を封じたのは・・・・ 1976年2月5日、アメリカ議会上院公聴会で明らかになったロッキード社からのカネは3つのルートを通じて流れたとされた。