サリン工場に遺体処理場…地下鉄サリン事件から30年が経過 オウム真理教「かつての拠点」跡地の現在

かつて、雄大な富士山の麓に国家転覆を企てる狂信的なカルト集団がいた。数多くの事件を引き起こしてきた集団の教祖が、最後まで潜伏していた「第6サティアン」、化学薬品を製造する工場の「第7サティアン」など、地下鉄サリン事件で一気に注目を集めたそれらの関連施設も、今ではその痕跡も見当たらなくなっていた――。 ’90年代に日本中を震撼させた宗教団体『オウム真理教』。出家信者をめぐり、教団側と信者の家族との話し合いから発展した「坂本弁護士一家殺人事件」や、象のマスコットや教祖・麻原彰晃のお面を付けて歌い踊る選挙運動など、この教団の得体の知れなさは当時のワイドショーや週刊誌で連日取り扱われていた。そのころ、山梨県上九一色村(かみくいしきむら・現在の南都留郡富士河口湖町)にいくつかの教団施設が建設され、それらは「サティアン」と呼ばれていた。ヘッドギアと呼ばれる電極コードを頭部に装着したり、白装束で集団生活する姿もその異様さを際立たせていた。 その工場で作られたサリンが、1995年3月20日に起きた「地下鉄サリン事件」で使われてから、今年で30年を迎えた。事件が風化しつつあるなか、かつてのオウム真理教の拠点は、今、どうなっているのか。節目を前に、改めて現地を取材した。 ◆遺体処理場の跡地に立つ慰霊碑 化学兵器サリンが精製された「第7サティアン」、教祖の麻原が潜伏生活を送っていた「第6サティアン」など、旧上九一色村内に点在していたサティアン群は、いずれも1996年以降にすべて取り壊されている。跡地の中でまず訪れたのは、リンチ殺人などの遺体を処理していたという「第2サティアン」を中心とする跡地。現在は広大な公園となり、慰霊碑が建立されている。 公園を訪れる人もほとんどいなかったが、慰霊碑には花が供えられていた。よく見るとそれはプラスチック製の造花で、花びらの一部は劣化して落ちていた。碑が建てられた辺りにはかつて、巨大な電子レンジのような仕組みの遺体処理機があり、教団側に都合の悪い信者が「ポア(粛清)」された場所になる。 現在は、その跡地前を地元の酪農家などが行き来していた。同所には他にも「第3サティアン」「第5サティアン」があったが、今となっては雑草が生い茂るだけで、慰霊碑を除いた場所の痕跡はほとんどわからなくなっていた。 信者が集団生活を送っていた大型施設で、地下鉄サリン事件の後は教祖の麻原が2ヵ月近く天井裏の隠し部屋に潜伏していたことで有名になった「第6サティアン」。当時を取材した記者が振り返る。 「麻原逮捕までほぼ毎日、テレビや新聞、雑誌などメディア関係者が張り付いていました。出入り口の『VICTORY』と書かれた小屋の前では、24時間体制で信者が警備していました。深夜でも延々と『私はや~ってない潔白だ~』と麻原の歌うテープが流されていたのを覚えています。 早朝には“オウム食”と呼ばれた信者向けの朝食らしき箱が大量に運ばれて来て、熟れたバナナの匂いが一帯に広がっていました。麻原の家族だけ高級メロンを食べていたと報じられていましたが、信者らは質素な食生活だったようですね」 こちらも現在は枯れ草が生い茂るだけでなんの痕跡も残っていない。その奥には、当時と変わらず雄大な富士山がそびえていた。 ◆サリンプラントの跡地を歩く かつてその地にそびえ建っていた白い巨大な建物の中では、猛毒ガスなどを製造する本格的な化学プラントがあった。本誌は1995年4月21日号で、その内部の写真をスクープしている。現在では雑草に覆われており、言われなければそこにテロ薬品工場があったとはとても思えない場所だ。 この工場だけはその後の裁判や調査のために他のサティアンより長く現状保存されていたものの、1998年ごろに解体された。 次に足を運んだのは、富士山総本部跡地(静岡県富士宮市)だ。旧上九一色村から車でおよそ20分。山梨県との県境にある静岡県富士宮市に入ると、ロシアから輸入したヘリコプターが導入されたことでも話題となった総本部の跡地がある。ここでも信者がポアされたり、独房で子どもが監禁されたりといった惨劇が繰り返されたという。第1、第4サティアンが隣接していて、当時は教団の説法ビデオやアニメも作成されていた。 現在は盲導犬の訓練施設『富士ハーネス』が作られ、敷地内の一画には地元住人らがオウム教団排除へ団結したことを記念する碑が、わずかな痕跡として残されている。 その富士山総本部から車でさらに1時間。山梨県南部町の奥まった川沿いには、富士清流精舎と呼ばれる施設があった。内部の工場では自動小銃などの武器を密造する計画が進んでいたという。その跡地には『森のオアシス』と名付けられた公園があるが、かつてのオウム教団の関連施設があったことはほとんど忘れ去られ、静かな川のせせらぎが聞こえるだけであった。 30年の月日の中で、オウム真理教の痕跡はどんどんと消えつつある。しかし、あのような惨劇を二度と起こさせないためにも、事件の記憶だけは風化させることなく、後世に語り継いでいかなければならない。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加