「大蔵省の責任を書かないという選択肢はなかった」山一証券社長は大蔵省から含み損の「飛ばし」を示唆された…“ミンボー専門”の42歳の弁護士が「調査報告書」に込めた思いとはー平成事件史(18)戦後最大の経営破たん

筆者の目の前にあるのは106ページにわたるドキュメント。1997年の山一証券の「自主廃業」に至った経緯が詳細に綴られた転落の記録である。 作成したのは、まだ「第三者委員会」という言葉さえない時代に、真相究明に立ち上がった社員の調査チームだった。その物語は、元読売新聞の清武英利氏の名著「しんがり 山一証券最後の12人」で克明に記されている。 当時、司法記者クラブに所属して東京地検特捜部を取材していた筆者は、「調査報告書」の内容に衝撃を受けた。 特捜部の捜査でも判明していない核心に迫る関係者の証言や、損失隠しの新事実が随所に盛り込まれていたからだ。「調査報告書」は山一元社員ら100人以上からのヒアリングをもとに、破たんに至る生々しい経緯を浮き彫りにした。 「しんがり」たちを弁護士として支え、実際に「調査報告書」を執筆したのが、当時42歳で民暴対応が専門の“マチベン”国広正弁護士であった。 この中で国広は、当時は絶対的な権力者だった「大蔵省」の責任を厳しく指摘した。これに対して周囲は「大蔵省に睨まれて大変な目にあうのでは」と心配した。 しかし、国広にとって書かないという選択肢はなかった。当時、国広はどんな思いで大蔵省の関与にまで踏み込んだのか、今だから明かせる本音を聞いた。 ■大蔵省の責任に踏み込む 山一証券の「社内調査報告書」が公表されたとき、世間が驚いたのは、トップエリート官庁「大蔵省」の監督責任にも切り込んでいる点であった。 経営破たんの原因はもちろん山一証券にあるが、絶大な権限を持つ監督官庁である大蔵省がなぜ山一の「損失隠し」を黙認したのか、目をつぶってきたのか、報告書は大蔵省の関与についてリアルに描き出していた。 1991年は激動の年だった。大手証券による「損失補てん問題」が発覚し、野村証券や日興証券では広域指定暴力団「稲川会」への不正融資も明らかになり、野村の権力者だった田淵節也会長、田淵義久社長、日興の岩崎社長ら大物が相次いで辞任したのである。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加