ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(167再掲)

※【編注】第166回の掲載原稿の後半に不備があった。ここに、その不備があった部分から先の正しいものを掲載し直す。 真実を語る 佐藤の同志であった東谷朝夫が『秘密結社興道社の真実を語る』という小冊子を残しているが、その中に、脇山から聞いたという要旨次の様な話が出てくる。 「国交断絶後、日本の大使はじめ外交官、商社員は同胞を見捨て置去りにして、命欲しさに早々と引上げ船で帰国してしまった。 彼らは臆病者であり、非国民である。指導者が居なくなった同胞は、いかに生きるべきか。日本の国難を傍観することなく、日本人としての誇りを失わず、祖国のため各々の責任を果たすべきである。 わが興道社は、同胞を組織化し、連絡をとり、指導する。そのために行動力のある青年、憂国の同志が必要である。彼らとの連絡をとる任務を君たちに期待する」 東谷は沢田と、利敵産業防止を訴える檄文を持ち、当時のパウリスタ延長線で、起点のバウルーから約二百㌔先のルセッリアまで、旅をした。 東谷も小型拳銃を携帯した。(もし檄文が警官にみつかれば、その出所を追及され、責任は重い)と。覚悟はできていた。 檄文を、用心深く人を選んで手渡した。結社員の獲得の目的も兼ねていて、十数人の同志を得た。 因みに昔、筆者の知人に阿部牛太郎という人が居た。コチア産組の組合員で、一九七〇年代に理事を務めた。 この人が青年時代、マリリア近郊の植民地に居り、東谷と沢田の訪問を受けたという。綿の収納庫で、徹夜で加盟を説得された。が、家庭の事情があり、断った。 「アノ時、受けていれば、どうなっていたか…」と呟きながら、腕を組んでいた。 興道社の結社員が、全部で何人集まったかに関しては資料を欠くが、東谷は「興道社の同志の結盟書の五人目に、自分が署名、血判を押した」と記している。 その前の四人は、当然、創立者たちであったろう。 脇山は「同志は、赤穂義士に因んで四十七人とする」と話していたという。 ともあれ、そういう興道社であったが、前記の様に、発足半年後、社長の吉川がDOPSに連行・留置されてしまった。 東谷の小冊子には「興道社の結社員が檄文を配布中、同胞の密告で逮捕され、拷問を受け、その出所を白状、社長の吉川は…云々」とある。 しかしDOPSは起訴することはできなかった。 興道社犯行説の中には、襲撃は渡真利が個人的に扇動・指揮したとする説もある。 というのは、渡真利が後に別件で逮捕された時、彼が所持していた帳面の中に、次の様な文章が発見されたからである。 「敵性産業に従事することの非なるを説いて教導覚醒せしめ…(略)…どうしても覚醒、転向に至らない極悪なる指導者は抹殺・処理する」 しかし渡真利が、それを実行したという裏付けは存在しない。すれば、起訴され有罪判決を受けた筈である。が、起訴すらされていない。 渡真利は、一時はそこまで激したこともあったであろうが、実行はできなかったということであろう。その程度の人物であったらしい。 襲撃は自分がやった! では襲撃は、誰がどういう経緯でやったのか? その実行者を見つけ出して、話を聞くことができれば、ある程度までは判るのだが…。 しかし、それは夢物語であろう、と筆者は諦めていた。ところが二〇〇四年「養蚕舎の焼討ちを、自分がやった」という人物と会うことができたのである。紹介者が居て尽力してくれたのだ。 これは小さな奇跡だ、と心が躍った。 ただ、当人は焼討ち後、逮捕されて居らず、罪も償っていない。そこで、匿名にするという条件で話を聞いた。さらに後日、当人から、 「事情ができたので、今後とも匿名のままにして欲しい」と伝言があった。 従って、ここではFということにしておく。 Fは一九二五(大14)年の生まれで、七、八歳の頃、家族とともに移住してきた。焼討ちをした時はマリリアに住んでおり、そこでやった。 十七、八歳だったというから、一九四二、三年ということになる。 前掲の公文書保存館の小冊子の「一九四四年四月二十四日から二十八日にかけて、マリリアで六棟の養蚕舎が…云々」という記述とは、マリリアという場所は一致しているが、時期がズレている。別件であり、しかも警察に被害届が出されなかったことを意味する。 Fには、仲間が一人おり、そちらは十六歳だった。 この世代は暴走し易い。しかも祖国は戦争を続けており、若者たちは血を騒がしていた。

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