【ソウル聯合ニュース】韓国大統領選で当選が確実になった革新系最大野党「共に民主党」候補の李在明(イ・ジェミョン)氏(60)は、困難な環境を克服した立志伝中の人として知られる。李氏は、自らを「土のさじ(貧しい家庭の出身を指す言葉)」も持たずに生まれたと言うほどの徹底的な貧困を乗り越えなければならなかった。 先ごろ出版した自伝的エッセー「結局国民がやります」(原題)では、幼少期について記した章の冒頭に「私の子ども時代は悲惨だった」とつづった。 母はソウル郊外の京畿道城南市で公衆トイレの清掃の仕事をして生計を立て、家族は市場で捨てられた傷んだ果物で腹を満たしたという。 貧困に苦しめられたことが生きる原動力になり、貧民街の少年は底辺の暮らしから脱出したいという一念で勉強し、人権派弁護士になった。 市民運動をする中で世界を変える力が必要だと痛感して政治の世界に飛び込み、市長、道知事を経て大統領に上り詰めるまでの人生は波乱万丈だった。 人権派弁護士だったことや既存のエリート政治家とは異なる非主流派であり、ストレートな表現方法や勝負師気質は故盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領を連想させる。実際に、政界の一部で李氏は「戦闘型盧武鉉」と称されることもあった。 司法試験合格後、自ら「法曹界に派遣された労働者」として生きたと振り返るほど労働者意識が強かった。これが改革派の政治家としての「大同世上(全ての人が平等な社会)」「抑強扶弱(強きを抑え弱きを助ける)」という政治的指向を生む養分となった。 一方で、いかなる状況でも現実的な解決方法を見つけ出す実用主義や目標指向的な性格も強く、これは過酷な環境を耐え抜く中で体得した生存戦略といえる。 このおかげで朴槿恵(パク・クネ)元大統領を退陣に追い込んだ2016年のろうそく集会や、20年から続いた新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)、司法リスクや襲撃事件などの危機を乗り越え、大統領選を制することができたとの評価もある。 しかし、このような面は一部の国民に不安感や拒否感を与える要因にもなった。 李氏は今後、不安感を払拭して国民統合を成し遂げると同時に、尹錫悦(ユン・ソクヨル)前大統領の「非常戒厳」宣言で混乱した政局を収拾し、国民生活を回復させる重責を担うことになる。 新たな成長エンジンを発掘し、安全保障環境の変化に合わせて朝鮮半島や北東アジアの平和はもちろんのこと、グローバル危機対応力を高めることも課題だ。 ◇貧困層出身の少年工 「殴られないために」大学へ 李氏は東部の慶尚北道・安東の貧しい家庭で、5男2女のうち5人目として生まれた。本来はさらに姉が2人いたが、生活苦が原因で幼い頃に亡くなった。 ツツジの花を食べて空腹を満たさなければならないほど困窮した李氏は、初等学校(小学校)も5キロの山道を歩いて通わなければならないため休みがちだった。 初等学校を卒業した1976年、父とともに京畿道・城南に移住。中学進学をあきらめ、少年労働者として6年間を過ごした。 年齢が若く法的に就職できなかったため、近所の先輩の名前を借りて偽装就職した。 時計工場での塗装作業で嗅覚を一部失い、野球グローブの工場ではプレス機に左腕が挟まり骨折。現在も障害が残っている。 工場内での暴力にも苦しんだ李氏は、このような生活から脱け出すためには高卒資格を得て工場管理者にならなければならないと考え、高卒認定試験に挑戦した。 当時立てた三つの目標は「人に殴られずに生きる」「金を稼いで貧乏から脱け出す」「自由に動き回って暮らす」だったという。 眠気に打ち勝つため、机の上に画びょうをまいて猛勉強した末、奨学金を得て82年に中央大法学部に入学した。 中学や高校に通えず制服を着るのが夢だった李氏は、自分で買った制服で大学の入学式に出席した。 ◇盧武鉉氏の講義がきっかけで人権派弁護士に 市民運動で挫折 李氏は大学時代、80年の光州民主化運動の実情を知り、初めて社会の「巨悪」を認識した。ただ、キャンパス内に渦巻く民主化運動の熱気とは距離を置き、司法試験の勉強に集中した。唯一の命綱だった大学生の肩書を失うことを恐れたためだったという。 大学を卒業した翌年の86年に司法試験に合格。司法研修院で同期だった共に民主党の鄭成湖(チョン・ソンホ)国会議員とは政治人生を共に歩む同志となった。 李氏の人生を変えたもう一つのきっかけは、盧武鉉元大統領との出会いだ。司法研修院時代に盧氏の講義を聞いたことで人権派弁護士を目指すことを決心した。判事や検事の経験なしに弁護士事務所を開いて生活費が稼げるか悩んだが、盧氏から「弁護士は何をしても食いはぐれることはない」と言われて勇気を出したという。 89年に城南で弁護士生活を始め、住む家を追い出された人や貧しい労働者を助ける労働・人権派弁護士として活動した。 95年には市民団体「城南市民の会」の創立メンバーとして参加し、市民運動に乗り出した。 2000年には城南市盆唐区の栢宮・亭子地区の土地の用途変更を巡って当時の城南市長が関係者に便宜を図ったとの疑惑を提起し、注目を集めた。 02年のマンション分譲を巡る疑惑では城南市長との通話記録を公開し、公務員資格詐称の容疑で逮捕されたこともある。 03年末、城南市の旧市街地にある二つの総合病院が同時に廃業したことをきっかけに行った公共医療機関の設立運動で経験した挫折は、もう一つの人生の転機になった。 城南市民20万人の署名を集めた市立医療院の設立条例案が市議会に提出されたが、議席の多数を占めるハンナラ党(当時)は討論も行わず否決した。これに対し李氏は激しく抗議し、特殊公務妨害罪で指名手配されることになった。 李氏はこれを機に「世界が変わらないなら自分が世界を変える」として政治家になることを決意したという。 ◇型破りな城南市長時代 17年大統領選で全国区の政治家に 05年8月に当時の与党「開かれたウリ党」に入党した李氏は、初出馬した06年の城南市長選で苦杯をなめ、08年の総選挙では統合民主党の公認を受けたが落選。10年に城南市長選に再挑戦して当選し、注目の政治家としての道を歩み始めた。 任期開始から11日後には全国の自治体の中で初めてモラトリアム(債務返済猶予)を宣言するなど、型破りな市政運営が波紋を呼んだ。 14年に再選に成功すると、「城南3大無償福祉政策」と呼ばれる青年配当、制服無償化、公共産後ケア支援などの事業を推進した。 しかし、このような政策は朴槿恵政権との対立につながった。 16年、政府が地方財政の配分方式を変更すると、李氏は「福祉政策を無力化しようとする試み」と反発し、11日間にわたりハンガーストライキを行った。 このような活躍により李氏は全国区の政治家として名をはせ、共に民主党のキーパーソンとして取り上げられ始めた。 同年11月に始まったろうそく集会では朴槿恵氏の弾劾を訴え、刺激的な発言から「サイダー」の異名で存在感を高めた。 17年の大統領選で共に民主党の公認候補を選ぶ予備選に立候補した李氏は3位と健闘し、党内で基盤を築いた。 ◇京畿道知事として推進力誇示 21年大統領選では惜敗 李氏は18年の統一地方選で民主・革新陣営として16年ぶりの京畿道知事となり、名実共に大統領候補として名を上げた。 福祉政策「基本シリーズ」などを武器に独自の政策を積み重ね、19年に行った渓谷の違法施設撤去事業が評価され、「李在明ブランド」を確立した。 コロナ禍では防疫指針に協力しなかった新興宗教団体「新天地イエス教会」の強制調査を指示し、自身のイメージを強化した。 一方、統一地方選を控えて開かれたテレビ討論会で「実兄を強制入院させようとしたことはない」という趣旨の虚偽の発言をした罪で起訴され、二審で市長の当選無効を言い渡されたが、20年の差し戻し審判決で無罪が確定し、政治人生最大の危機を乗り越えた。 安熙正(アン・ヒジョン)元忠清南道知事や故朴元淳(パク・ウォンスン)元ソウル市長などのライバルがセクハラ疑惑で相次ぎ失脚した中、李氏は司法リスクを回避して大統領選の有力候補に躍り出た。 21年、ついに党内の予備選で元首相の李洛淵(イ・ナギョン)候補を退けて勝利し、大統領選に出馬した。 だが、李洛淵氏側が提起した都市開発事業を巡る不正疑惑が足を引っ張り、尹錫悦氏に大統領の座を譲らなければならなかった。尹氏との得票率の差はわずか0.73ポイントで、大統領選での得票率の差としては歴代最小だった。 ◇司法リスク・ハンスト・襲撃乗り越え総選挙圧勝 大統領選出馬へ 大統領選での落選後、しばらく休息期間を置いたこれまでの候補とは異なり、李氏は敗北直後に党総括選挙対策委員長として22年6月の統一地方選を主導した。 また、共に民主党の宋栄吉(ソン・ヨンギル)代表(当時)がソウル市長選に出馬するため国会議員を辞職したのに伴って行われた補欠選に出馬。自身は当選したが党は惨敗し、党内の非李在明派を中心に司法リスクを逃れるための出馬だと非難された。 党の求心力不足が指摘されるなか、22年8月に党代表に選出されるが、就任から1年を迎えた23年8月、「無能な暴力政権に対し国民闘争を始める」として無期限のハンガーストライキを開始した。 これに対し、当時の保守系与党「国民の力」は「司法リスクを避けるための断食」と批判した。 都市開発事業を巡る不正事件で検察が2度目の逮捕状を請求したのに続き、同年9月23日の国会本会議で李氏の逮捕同意案が可決され、李氏は再び政治的危機に直面した。しかし、同月27日に裁判所が逮捕状の請求を棄却し、再び崖っぷちから生還した。 昨年1月には、南部の釜山沖にある加徳島の新空港建設予定地を訪れた李氏が男に首を刺される事件が発生した。その後の総選挙では野党の圧勝をけん引し、大統領候補としての地位を確固たるものにした。 同年12月の非常戒厳の際は野党代表として国会で戒厳解除要求案を可決させ、尹前大統領を罷免に追い込んだことで、大統領選への再挑戦が事実上確定した。 ただ、司法リスクが最後まで足かせとなった。 22年の大統領選に絡み虚偽の事実を述べたとして公職選挙法違反の罪に問われた李氏は、先月に大法院(最高裁)が二審の無罪判決を破棄し、審理を差し戻したことでまたも危機に直面した。 しかし、差し戻し審と都市開発事業を巡る裁判の公判が大統領選後に延期されたことで、ついに大統領の座をつかんだ。