大阪では飛田新地をはじめとした「五大新地」は現在も営業を続けているが、違法風俗である〝ちょんの間〟は常に〝消滅〟の危機にある。ここ20年間ほどの間に「消えた〝ちょんの間〟街」について風俗ジャーナリスト・生駒明氏が解説する【後編】。最初に紹介するのは、摘発後に再開発されて完全に姿を消すといわれている「かんなみ新地」だ。 【前編】「万博よりも盛況」な飛田新地の現在とその一方で…「消えた〝ちょんの間〟地帯」の失われた風景 ◆建物はまだ半分ほど残る…尼崎「かんなみ新地」 兵庫県尼崎市にはコロナ禍発生後の’21年冬まで「かんなみ新地」という違法風俗街が存在していた。木造長屋が並ぶ約680㎡の一角に、約30店もの〝ちょんの間〟が密集していたが、同年11月1日に「地元から『生活環境が悪化している』との声が寄せられている」として、尼崎市と尼崎南署の連名で「性風俗店の営業禁止区域であるので、直ちに中止するように」といった趣旨の警告書が出される。それを受けて店側が一斉に営業を休止し、約70年の歴史に幕を下ろした。 売春街の始まりは、終戦直後に街角に立ちはじめた街娼が、次第に店舗型に形を変え、非合法な風俗街、いわゆる〝青線〟ができたことだった。1958年に売春防止法が完全施行されても存続する。’06年に開催された「のじぎく兵庫国体」の際には、市や県警が「歓楽街クリーンアップ」と銘打って取り締まりを強化したが、結局〝ちょんの間〟は残った。店を単体で摘発してもすぐに営業を再開される「イタチごっこ」が捜査幹部らを悩ませたという。 ’21年11月に出された警告書の背景には、「SNSやネットの広がり」「都市整備」「暴力団排除」の3つがあった。かつて市内にあった他の違法風俗街はすでになく「(かんなみ新地が)今までつぶれなかったことが奇跡的で、一番の不思議」「ずっと無法地帯が放置されていたのが謎」ともいわれていた。 市は地域の環境改善のため、全ての土地を取得して更地にして売却する方針で、取得済みの敷地の解体工事を始めている。解体後の敷地は、イベントなどに使える広場にするとしている。 現状を確認すべく、5月下旬に現地を訪れた。建物の半分ほどは解体されていたが、残りは健在だ。現場にいた人に話を聞いてみると「まだ一部に人が住んでいるから、壊せない」とのことだった。尼崎市と住民の交渉中だという。〝ちょんの間〟として使用された建物は、思った以上にしぶとかった。 ◆250軒以上が営業していた〝ダークな横浜〟…横浜「黄金町」 最後に、〝ちょんの間〟が摘発された後も、残った建物を壊さずに上手に再利用し、新しい街のイメージ作りに成功した2つの例を紹介したい。 かつて横浜・黄金町は、大阪・飛田新地、沖縄・真栄原社交街と共に「日本三大〝ちょんの間〟街」に挙げられていた一大色街だった。戦後に非合法の青線地帯として栄え、高度経済成長期には高架下に売春宿がひしめいた。〝ダークな横浜〟を象徴するエリアとして、黒澤明監督の名作『天国と地獄』(1963年公開)で、売春婦や麻薬中毒者が巣くう黄金町の様子が生々しく描かれた。 昔は日本人女性がほとんどだったが、昭和50年代(1975~)には台湾から、同60年代にはタイやフィリピンからの出稼ぎ女性が増えはじめる。以降、中国、韓国、さらには南米や東欧からの女性が街を席巻。それまでいた日本人女性が川向こうにある合法風俗街・曙町へと流出したことも、この変遷の要因だった。 時代を重ねても、風紀は一向に改善しない。1995年の阪神・淡路大震災後は、鉄道の耐震補強によって高架下から締め出された店舗が高架沿いの長屋建築に次々と染み出し、一時は京急電鉄の高架下に250軒以上の売春宿が立ち並ぶまで膨張。1店舗に1~3人の女性が待機し、8時間交代で24時間営業していたことから、単純計算でも1000人以上の売春婦がいたと推測されている。母国で多額の借金を背負わされた外国人女性が、1万円ほどで春を売っていた。 通りを一つ隔てて地域住民が普通の暮らしを営む環境とあって、この頃には住民の生活全般への悪影響はピークに達していた。’00年代に入ると、街の混沌とした有り様に我慢できなくなった地域住民の怒りが臨界点に達する。 「子どもたちは風俗を横目に通学している」と訴え警察と行政を動かした結果、’05年1月から「バイバイ作戦」が実施される。作戦名は「さようなら」を意味する英語と売買春をかけたものだ。 〝ちょんの間〟は貸し主が月に数百万円を稼ぐほど旨味のある商売のため、店ごとに摘発しても次々と新しい店舗が出現する。これに歯止めをかけるため、機動隊を街に24時間常駐させ街を装甲車で包囲し、訪れた客には片っ端から職務質問をした。街全体を封鎖してまずは客足を断ち、店の経営を苦しくさせて、売春宿を追い込んだのである。その結果、違法行為を行っていた店舗は次々と閉店し、黄金町から売春は一掃された。 抜け殻となった売春宿をそのままにしていてはゴーストタウンになってしまうことから、一斉摘発後にアートで街に賑わいを取り戻す動きが始まった。多くの人たちの努力が実を結び、街はアートを核に据えて再生を果たす。現在は「黄金町といえばアートの街」と認識されるまでになっている。 ◆現在はインスタ映えする観光スポットに…京都「五条楽園」 京都府京都市には15年ほど前まで「五条楽園」という〝ちょんの間〟地帯があった。場所は京都駅から北東の方角に徒歩15分ほどの五条大橋の南側、鴨川と高瀬川に挟まれた中州地帯の一角である。 平安時代から続く遊廓で、江戸後期から明治・大正にかけて特に栄えたという。大正時代に隣接する複数の遊廓が合併し、長らく「七条新地」の名で親しまれる。1935年前後には京都随一の色街として賑わい、1000人ほどの遊女がいたという。 戦後は赤線地帯となり、1958年の売春防止法完全施行後も「五条楽園」と名を変えて一部で売春が続けられた。店に上がって部屋で待っていると和服姿の女性が訪れる形式であった。 長年ひっそりと営業していたのだが、週刊誌やインターネットで売春の実態が掲載されたことがきっかけの一つとなり、’10年10月と11月に京都府警による取り締まりが行われる。お茶屋と置屋の統括責任者や経営者らが売春防止法違反容疑で逮捕され、一斉休業を余儀なくされた。翌’11年3月に五条楽園のお茶屋組合は解散し、その歴史の幕を閉じた。 その後、この地に本拠を構えていた某広域暴力団が’17年に京都市から本部の使用禁止命令を下されて姿を消すと、開発が進む。明治・大正時代に建てられた旧遊廓やカフェー建築の個室の構造を活かしリノベーションされた飲食店や物販、宿泊施設が次々と開業し、「新文化の発信地」に変貌した。 現在は、昔のお茶屋や置屋など元花街の風情があり、唐破風(からはふ)の玄関やお洒落なデザインが施されたタイルやガラス窓などレトロで貴重な近代建築物が残る「インスタ映えする観光スポット」「懐かしくも個性あふれる街」として、海外からの観光客や若者を中心に人気となっている。 黄金町と五条楽園は、〝ちょんの間〟街がかつての建物を残しつつ、万人に歓迎される健全な形で賑わいを取り戻した稀有な例である。「ディープな色街から観光スポットへ」という〝イメージの一新〟を見事に成し遂げたのだ。 こうして過去の例を俯瞰してみると、摘発された〝ちょんの間〟地帯は、地域住民から「違法風俗街は社会の邪魔者だ」と嫌悪され消滅に至っている点で共通している。このことから「地域に受け入れられること」が、色街が存続していくのに欠かせない要素ということがよく分かる。万博開催後も大阪五大新地が存続している理由は、ここにあるのだろう。 しかし、五大新地もいつまであるか分からない。今回紹介したように、法的にグレーな色街は「はかない」ものだからだ。 世界中から大勢の来客がある飛田新地は、かつての遊廓の雰囲気を今に残すという意味でも歴史的に特に貴重である。これまで通り、きちんとした納税や地元経済への波及効果などで地域に大きく貢献して、いつまでも営業し続けてほしい、と願ってやまない。 取材・文・写真:生駒明