『「桐島です」』高橋伴明監督が明かす製作秘話 かつての自分の勾留経験と重ねる

「夜明けまでバス停で」の高橋伴明監督が、指名手配犯・桐島聡の“弱い立場の人に寄り添う人柄・考え”をドラマチックに描く衝撃作『「桐島です」』(7月4日公開)の製作秘話を明かすオフィシャルインタビューが、公開された。 2024年1月26日、1970年代の連続企業爆破事件で指名手配中の「東アジア反日武装戦線」メンバー・桐島聡容疑者とみられる人物が、末期の胃がんのため、神奈川県内の病院に入院していることが判明。男は数十年前から「ウチダヒロシ」と名乗り、神奈川県藤沢市内の土木関係の会社で住み込みで働いていた。入院時にもこの名前を使用していたが、健康保険証などの身分証は提示しておらず、男は「最期は本名で迎えたい」と語った。報道から3日後の29日に死去し、約半世紀にわたる逃亡生活に幕を下ろした。 桐島聡は、1975年4月19日に東京・銀座の「韓国産業経済研究所」ビルに爆弾を仕掛け、爆発させた事件に関与したとして、爆発物取締罰則違反の疑いで全国に指名手配されていた。最終的に被疑者死亡のため、不起訴処分となっている。 この謎に満ちた人物の軌跡を「夜明けまでバス停で」で第96回キネマ旬報ベスト・テン日本映画監督賞、脚本賞を始め、数々の映画賞を受賞した脚本家・梶原阿貴と高橋監督のコンビがシナリオ化。主人公の桐島聡は毎熊克哉が扮し、20代から70歳で死去するまでを演じ切っている。 ――2024年1月、桐島聡のニュースを知ったとき、どのように感じましたか? 「日本にいたのか」と思いました。彼は海外にうまく逃げているのではないかという予想もあったので、「日本にいたのか」という驚きがまずありました。そして、彼は単に逃げ続けていたのではなく、一般社会に溶け込んで生きていたからこそ、ここまで長く逃亡を続けることができたのだろう、とも感じました。それも、小さな町にひっそりと隠れていたわけではなく、神奈川県藤沢市という都市に住み、普通の社会の中で暮らしていた。そんな事実を知り、改めて彼の生き方に関心を持ちました。 ――それが映画になると思ったのは、いつ頃ですか? 事件が報じられたとき、ちょうど別の企画を進めていたのですが、その映画のプロデューサーの小宮亜里さんが「いや、これをやるべきでしょ」と言い出しました。僕自身、過去に連合赤軍事件を題材にした「光の雨」(2001)を撮った経験もあり、「この話を映画として残すべきだ」と考えました。49年もの間、逃亡し続けた一人の男の物語には、映画として描くべきテーマがある。そこから、急遽企画が動き始めました。 ――脚本はどのように作られたのでしょうか? すぐに(「夜明けまでバス停で」でコンビを組んだ)脚本家の梶原阿貴さんに電話しました。すると、彼女が「もうスクラップは作っていますよ」と言ったんです。僕は、事実とフィクションをどう織り交ぜるかを考えていたので、「嘘の部分は俺が責任を取るから、事実の部分を5日でまとめてくれ」とお願いしました。2月の初めには作業が始まり、本当に5日で第一稿が完成しました。僕自身も「こういう話にしたい」という下地を作っていたので、それと梶原さんの脚本にコメントを書き加えながら進めていきました。 ――フィクションとして描きたかったのはどんな部分ですか? それは、桐島の青春時代です。彼は単なるイデオロギーの信奉者ではなく、もっと普通の若者だったのではないかと思うんです。もし彼が純粋に思想だけで突っ走っていたなら、もっと早く捕まっていたのではないか。彼には、革命家としての一面とは別に、ごく普通の青年としての側面もあったはずです。だからこそ、青春や恋愛の部分を描くことで、「逃亡者」ではなく「一人の人間」としての桐島聡を表現したかった。 ――恋人と一緒に映画「追憶」(73)を観て、喫茶店で語り合う場面などですね。「追憶」はシドニー・ポラック監督作で、政治活動に熱心なヒロイン(バーブラ・ストライサンド)とノンポリ学生(ロバート・レッドフォード)の20年の恋愛を描いています。 「追憶」を選んだ理由には、僕自身の思いも込められています。あの映画では、ヒロインが軍人に惚れるのですが、それがどうも腑に落ちなかった。劇中の桐島は、恋人から「時代遅れだ」と言われて振られるのですが、当時の自分の経験と重ねました。実は1969年当時婚約していた人がいました。僕が内ゲバで逮捕されて留置場に半年勾留された際には別れなかったのですが、その流れで、彼女はいい会社に就職したいという想いがあって、僕が運動したことに対して言われた言葉です。結局彼女とは別れました。 ――そのセリフが後半、キーナ(北香那)が歌う「時代おくれ」(河島英五、1986)にもつながっていきますね。 これは偶然の選択でした。最初は別の曲を考えていたのですが、版権元の許可が下りなかった。それで代わりの曲を探していたところ、河島英五さんの「時代おくれ」に出会いました。「時代遅れ」という言葉が作品のテーマと重なり、結果的に良い選択になったと思います。 取材の過程で分かったのですが、桐島はロックだけでなく、演歌も好んでいたそうです。特に、ちあきなおみの「喝采」が好きだったという証言がありました。劇中で音楽を通じて彼の内面を表現しようとしたのは、そうした彼の人間味を伝えたかったからです。 ――毎熊克哉さんの演技について、どのように評価されていますか? 毎熊さんは映画をよく理解している俳優で、細かく説明しなくても、こちらの意図をすぐに察してくれる。彼はもともと監督志望だったこともあって、現場の流れや演出意図を深く理解してくれるんです。演技にも深みがあり、表情一つで内面の葛藤が伝わってくる。その内面的な演技力が、この映画には欠かせなかったですね。撮影を進めるうちに、「この役を彼にやってもらえて良かった」と何度も思いました。 ――映画で描きたかったものは何でしょうか? この映画は「単なる逃亡の物語ではない」ということです。桐島聡が49年間逃げ続けたのは、ただの逃亡生活ではなく、彼の中に人間的な優しさがあったからではないかと考えています。彼は、弱い立場の人に寄り添うことができる人間だった。 毎熊さんの所属事務所のアルファーエージェンシー社長、万代博実さん(2025年2月11日逝去、享年74)が「これは青春映画だ」と言ってくれたのがうれしかった。単なる社会派の映画でもなく、政治運動の映画でもなく、一人の人間の青春の軌跡を描いたつもりです。

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