ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(216)

なお右の自決勧告状は山下の記憶によると、三原清次郎という男が書いた。DOPSの調書によると、小笠原亀五郎が三原に強引に書かせたことになっている。三原は、勧告の相手が誰なのか知らずに書いたという。 そのせいか、内容は、日高たちが筆者に話した襲撃の動機(前章参照)とは全く異なっている。 この事件を新聞で知った蒸野太郎は(ここで、ジッとしているわけには行かない)と、働いていた農園を出た。が、結局、アチコチ転々とするだけで終わった。 その間、またも警官に包囲され脱出…ということもあった。 前出のジアデーマの近くの塚田という家に居た時、朝、カフェーを飲んでいると、突然、部屋の窓から一丁の拳銃がニュッと突き出された。銃口がこちらに向いた。続いて顔が…。「警察の犬タチバナだった」という。 またタチバナである。 警官が家を包囲していた。蒸野は脱出を断念した。 四月一日事件と脇山事件の決行者は、これで全員、逮捕されるか自首した。 協力者も相次ぎ拘引された。小笠原亀五郎、由迫紋伍、富塚博らである。 ポンペイアの白石・横山家にも、警官たちがやってきた。 以下、エッちゃん(白石悦子、前章参照)の断片的な記憶である。 「皆が、サンパウロへ向かった後、私は母に言われて、毎日、朝刊と夕刊を買いに行きました。売っている新聞を全部買ってきました。サンパウロで起きる事件を知るためでした。家の中は新聞だらけに…(略)…ポンペイアでも、大勢の人がカデイアに入れられました。その時、母から言われて、毎日五回くらい、お弁当を運びました。中に居る人が、 『警察が出す食事は危ない。毒入りかもしれない』 と言って食べない。それで母がつくって…」(カデイア=警察の留置場) 毒入りとは、当時、警察は拷問の一種として猛烈な下痢を起こす薬を食事に混ぜることがあった。自供に追い込むためである。そのことであろう。 「ある朝起きて、外を見たら警官が十数人、家を取り巻いていました。叔父が連れていかれ二、三年、サンパウロのカデイアに行っていました。母もサンパウロから来た警官に…。私は駅まで追いかけて行き、出て行く汽車に向かって叫びました。 『オカーチャン!』 って。 母は窓から手をふっていました」(カデイア=この場合は多分、留置場と拘置所) 脇山事件の翌三日、日本の吉田茂外相名で日系社会宛の、日本の降伏を確認する電報がスエーデン領事館の日本・日本人権益保護部に着信した。 相次ぐ襲撃事件を重視しての保護部からの連絡に対する回答であったようだ。 この電報は、一般の邦人に公開された。が、内容は役人が書いたと一目で判る味も素っ気もない、しかも判り難い文章であった。効果はなかった。 自警団 ところで、こうした情勢推移の中で、敗戦派も反撃に出ていた。 サンパウロでのそれは、藤平正義たちの動きを通じて既述したが、地方でも行動を起こしていた処があった。 これは前章で少し触れた。例えばパウリスタ延長線のガルサやドアルチーナである。 ガルサでは、同年二月頃から数人ずつで戦勝派を訪問、敗戦認識を説得、その勢力を切り崩したり、要注意分子を監視し警察に通報、引致させたりした。 ドアルチーナの場合、ここには九章で登場した中野文雄の一家がいた。戦時中バラ・ボニータで警官の暴行を受けて退避後、移ってきていた。父親の文蔵は臣道連盟の支部長をしていた。 文雄は筆者に、こう語っている。 「当時、ドアルチーナには百数十家族の邦人がいた。大半は戦勝派だった。しかし、コロノからメイアへ移行中の人が多く、経済的に商人の世話になっていた。その商人が向うの頭株だった。ために彼らから敗戦認識を迫られると、イヤとは言えなかった」(コロノ=家族単位の雇用農、メイア=歩合農) 文中、向こうとは、認識運動の活動家のことである。 つまり、敗戦派はそういう方法も使っていたわけである。 父親の文蔵は何十回となく警察へ引っ張られた。殴られて帰ってきたこともある。 他にも同じ被害を受けた戦勝派もいた。 ここの警察も、初めは日本人社会の内部問題である…と干渉するのを嫌がったという。が、途中から積極的になった。 当時の常識からすれば、それは裏で金が動いたということで、敗戦派による買収以外、考えられないと中野は言う。 前出のアリアンサの雁田盛重の手記にも、「警官が、ハイセンから幾ら貰った、と自分に話した。その資金を(地元の)組合で組合員から集めた」 といった類いの具体的な話が出てくる。

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