■冷え切った夫婦仲と度重なる不倫 妻の不倫が報道されると、夫はたいてい衰弱した様子を見せるものです。夫の打ちしおれ方は、夫の不倫が発覚した妻以上に世間の同情を買うほどだったりするのですが、昭和初期、妻・徳子の不倫愛――というか、そこら中の男たちと妻が関係していたと知った吉井勇伯爵は、心身衰弱のあまり「隠居」を決意しました。 徳子のスキャンダルが発覚したのが昭和8年(1933年)11月。しかし、皇族に加えて華族の行状も監督した宮内庁宗秩寮(そうちつりょう)の総裁・木戸幸一侯爵によると、徳子の恋のお相手は「(近藤男爵家の三男坊・)近藤廉治との関係」だけに終わりませんでした。「鈴木伝明(=人気俳優)、川口松太郎(=人気作家)、慶応学生桜井浩太郎とも関係の疑あり」と、掘れば掘るほど「芋づる式」に怪しい人物が出てきてしまう底なし沼の様相を呈し始めたのです。 吉井勇伯爵にとって、徳子は「打てども響かぬところがある」妻にすぎませんでした。ゆえに結婚後も「恋多き男」でありつづけた吉井伯爵にも多数の恋人はいたのです。しかし、戦前の民法において「姦通罪」の対象となるのは夫ではなく、妻とその恋人の男性「だけ」なんですね。 徳子が逮捕され、その見境ない婚外恋愛の数々を警察から教えられ、ついに徳子が宮内庁宗秩寮の審議会において断罪されると知った吉井伯爵は当初、華族の身分を返上しようとさえ思ったそうです。しかし、それは「法律的に難しい」ので「隠居」するしかなくなった、「心身ともに疲れ、すっかり弱ってしまった」と取材の新聞記者に語ったのでした。 事件発覚から早くも約1ヶ月後の12月21日、宮内庁宗秩寮でおこなわれた「審議会」では、近藤廉治・泰子に「除族」――華族身分を剥奪するという重い判断がくだされました。 それに対し、近藤廉治を含む数多くの男性と不倫しまくっていた吉井徳子には「礼遇停止」――華族として一定期間、公の場に出ることの禁止するというペナルティだけが決定したのです。 かなり甘いといわざるをえませんが、これは男尊女卑社会の一面でもあるのです。男性のほうが女性よりも「えらい」ぶん、同じ「罪」を犯しても、男性のほうが「罰」が重くなるわけです。ちなみにこの時、吉井勇は「訓戒」の処分でした。つまり、厳重注意だけで済んだということですね。勇と徳子がほぼ無傷でいられたのは、徳子が「大正天皇のまたいとこ」だったという血縁が奏功したのでしょう。 その後の吉井勇は徳子と完全別居し、京都に移り住みました。徳子は一時期、実家・柳原伯爵家に軟禁されていましたが、その扱いに抗議してタクシーに乗って叔母・柳原白蓮とその3人目の夫・宮崎龍介が暮らす目白の家に脱出します。 白蓮は徳子を受け入れ、保護しました。しばらくすると徳子は高田馬場の借家で暮らしながら、宮崎家に毎日顔を出す生活を続けるようになりました。白蓮の娘・宮崎蕗苳(みやざきふき)によると、徳子は家事はダメでしたが、明るく活発な女性だったとか……。