新選組とともに明保野亭事件に加わった会津藩士の切腹は、土佐藩への“忖度”が引き起こした悲劇だった

明保野亭(あけぼのてい)事件は、元治元年(1864)6月、不逞浪士を捜索中の会津藩士・柴司(しばつかさ)が、誤って土佐藩士に傷を負わせ切腹させられた出来事である。柴の行動は正当なものであったが、土佐藩との関係悪化を憂慮した主家の命により自ら命を絶たざるをえなかった。会津藩主・松平容保も涙した悲劇はなぜ起きたのか。 ◼️土佐藩士の紛らわしい行動で会津・土佐が一触即発の危機 明保野亭事件は新選組が一躍勇名を轟かせた池田屋事件から5日後に起きた出来事である。 池田屋事件は元治元年(1864)6月5日、京都三条の旅籠・池田屋に潜伏していた長州・土佐などの尊攘派志士を、会津藩預かりの浪士集団である新選組が逮捕、惨殺した事件である。志士たちは京中に火を放ち、中川宮朝彦親王(なかがわのみやあさひこしんのう)や松平容保ら公武合体派の要人を殺害、孝明天皇を長州に連れ去る計画を立てていたという。これを察知した新選組は、三条・四条一帯をくまなく捜索して志士たちが潜伏する池田屋を襲撃し、奸計を未然に防いだ。 事件後も新選組、会津ほか諸藩兵による不逞浪士の捜索は続いた。市中各所で大量の武器が押収され、数十人の浪士・町人が身柄を拘束されたというから、その捜索は大規模かつ徹底したものだったようだ。 6月10日、東山の茶屋・明保野亭に長州人が20人ほどいるという情報をキャッチした新選組は、武田観柳斎(かんりゅうさい)率いる隊士15人と柴司ら応援の会津藩士5人で出動する。 池田屋の時と同じく、新選組は表口と裏口を固めたうえで屋敷に踏み込んだ。1階は柴司が固めていたが、その目の前で、怪しい武士が塀を乗り越え逃げようとした。柴は「何者だ、名乗れ」と声をかけたが答えがない。長州人だと考えた柴は、手槍でその武士を突いたところ、「私は浪士ではない。土州(土佐)の麻田時太郎(あさだときたろう)であるぞ」と名乗った。 柴は驚いたが、もはやどうすることもできない。新選組は麻田を土佐藩邸まで連れて行き、会津藩から医師が差し向けられた。しかし、土佐藩士は激高して謝罪も医師も拒絶し、会津藩の本陣のある黒谷を襲撃するか、壬生の新選組屯所へ切り込むかと息巻いたが、土佐藩家老のとりなしによって矛を収めたという。 一方、新選組の屯所でも土佐藩の襲撃に備えて、銃や大筒に弾を込め、裏門に盾を並べて終夜、厳戒態勢をとった。当時、土佐藩は公武合体を支持しており、会津との関係は良好であったが、この事件によって両藩は突如として緊張状態におかれたのである。 ◼️組織の論理の犠牲となった若き会津藩士 あわれなのは当事者の柴司であった。新選組2番隊組長である永倉新八の『新選組顛末記』によると、柴は壬生への帰還後も浮かぬ顔をしており、ことと次第によっては切腹しなければならないと思案顔で語ったという。だが、永倉は呑気なもので「ナニ、新選組は切り捨て御免となっている。御身は今、会津藩の人ではなく、隊の人だから心配することはない」となぐさめた。公務中の不慮の事故なので咎められることはないというのだ。柴の身を案じての心遣いであったろうが、何となく言葉が軽い。ちなみに柴が使った手槍は永倉から借りたものだったという。 実際、永倉の言葉は柴に響かなかったらしく、翌日、壬生から黒谷に向かう途中で出会った兄の柴幾馬に「逃走者は確かに怪しい者であり、槍で突かなければ自分が斬られていた」と主張している。 土佐の麻田が健在であれば、柴も咎を受けることはなかったかもしれない。しかし、不幸なことに、麻田は逃走を図って背後から斬られたことから「士道不覚悟」という理由で切腹してしまう。 会津藩側は戸惑ったが、土佐藩との対立を避けるため、ついに柴司に切腹を命じる。承諾を求められた松平容保は、困惑しながらも「致し方ない」といって了承したという。こうして事件から2日後の6月12日、柴司は兄・外三郎(ほかさぶろう)の介錯によって切腹した。享年21であったという。土佐藩への忖度によって罪なき若い命が失われたのである。容保は惜しい武士を失ったとしきりに泣き、家臣たちも涙した。 葬儀は翌13日に行われ、新選組から副長の土方歳三以下、井上源三郎、武田観柳斎、河合耆三郎(かわいきさぶろう)、浅野薫(あさのかおる)の5名が参列した。彼らは柴の遺体をなで、声を出して泣き、局長・近藤勇や永倉らは柴司の死を「士道の花」として語り伝えたという。 組織の論理によって罪なき若者が命を落としたこの事件は、成長途上にあった新選組にとっても大きな衝撃であり、のちに制定される軍中法度という隊規にも影響を与えたといわれる。

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