シベリア抑留は軍人だけではない、異国で生きた日本人、シベリア民間人抑留者の声なき声

「シベリア抑留」というと軍人の悲劇という印象が強くあるが、その中には市井の人々もいた。「シベリア民間人抑留者」は異国の地で、自らの運命を受け入れ、格闘し続けた人々であった。電子書籍『終わらなかった戦争 サハリン、日ソ戦争が戦後の日本に残したこと』に掲載されている記事の内容を一部、限定公開いたします。 樺太鉄道の機関士、伊藤實が軍の施設に来るようソ連当局から電話を受けたのは、30時間以上の勤務を終えてようやく横になったときだった。1946年6月30日の夜である。實はその日、真岡駅まで走る途中で信号を見落としあわや貨物列車と正面衝突という事態を起こしていた。多分それについての聴取だろうと、深刻には考えずに指定された部屋で一晩を過ごした。 翌日、背中に銃を突きつけられ、豊原(現・ユジノサハリンスク)の刑務所に連行されるとそのまま獄中に留め置かれる。半年たった深夜、軍事裁判だと呼び出され、訳の分からないうち「ソビエト共和国刑法第59条により懲役2年6カ月」を言い渡された。囚人として大泊港から船に乗せられウラジオストクに上陸。そこから運ばれた先はコムソモリスクにある収容所(ラーゲリ)であった。19歳4カ月である。 木村鉄五郎はソ連が管理するコンビナート工場で労働をしていた46年8月のある夜、北海道への脱出を図り樺太の東海岸の村から船を出した。小船には父親と、身重の妻もいた。北海道が見えたところで、ソ連軍監視船に発見され銃撃を受ける。そのまま逮捕、密航による2年の刑を宣告されるとクラスノヤルスク州カンスクのラーゲリに送られた。 カザフスタンに住んでいた實が日本の家族と再会できたのは90年11月。日本では64年に「戦時死亡宣告」(詳細は後述)が出ており、墓石には自分の名前が刻まれていた。一時帰国を二度行った後、97年、70歳の時に永住帰国を果たす。 鉄五郎はシベリアのカンスクという町にいるとの消息は伝わってきたが、他は何も分からないままだった。安否不明のままで時が過ぎ〝発見〟されたのはソ連崩壊後の93年。翌年札幌に住む妻子と新千歳空港で再会を果たす。初めて見る息子は壮年の47歳になっていた。

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