モダンな心斎橋で異彩を放った町人学者・岡田播陽 学問道楽が過ぎて店をつぶした男がいた 不遇列伝

大阪が日本一の都市であった約100年前、モダンな心斎橋には異質な名物男がいた。今年没後80年の岡田播陽(ばんよう)(1873~1946年)だ。呉服屋の店主でありながら、学問を好み、評論や小説を盛んに発表した。大阪の生き字引として知られた肥田晧三(こうぞう)氏も「世にハミ出した豪傑が、何もかもを薙(な)ぎ倒す勢いがあった」と評している。だが、どの人名辞典にもその名はない。唯一記載のあるものは「生没年不明」と誤っている。少し気の毒な播陽とはどんな人物なのか。 ■異様な長髪、犬も吠えた 大阪ミナミ。道頓堀川に架かる戎橋の上では、大勢の訪日客がグリコの看板のポーズをまねて写真を撮っている。この橋の南詰めに大正時代、日本にコーヒー文化を根付かせたとされるカフエー・パウリスタがあった。 「コーヒーを飲みに行くと、いつも播陽がいた」 こう証言しているのは、30歳ほど年下の作家・藤沢桓夫(たけお)や放送作家の長沖一(まこと)だ。同店で播陽は座談に興じたり、積み上げた本の傍らでにやにや独り言を言って原稿を書いたりしていたという。 どこへ行くにも懐に原稿用紙を詰め込み、袂に鉛筆を放り込んでいた。思いついたことをすぐに書き留めるためだ。 とにかく奇異な風貌だった。油気のない髪が肩まで垂れ、首筋にまとわりついている。 「播陽が街をゆくと、すれ違う十人のうち八人は思わずふりむく。娘があとずさり、子供が逃げ、イヌがほえた」 三男で、新聞記者で直木賞作家の岡田誠三が、父の生涯を活写した伝記小説『自分人間』(昭和52年)で、そう表現している。 そんな播陽を、誠三の次男・岡田清治さんは「祖父を一言でいえば、奇人変人、勝手人間ですね」と苦笑いしながら教えてくれた。 「小さいころ家には播陽の原稿があふれていました。終戦後、おもちゃなどない時代、その原稿を引っ張り出し、何が書いてあるのか知らずに紙飛行機にして遊びました」。清治さんもまた、父と同じく新聞記者の道に進んだ。 ■商品横流しで濡れ衣

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