小説は実に17年ぶりという著者による、新興俳句の俳人西東三鬼を主人公にした歴史小説である『三鬼』(小林恭二・著)。 「水枕ガバリと寒い海がある」「おそるべき君等の乳房夏来る」などいま見ても新鮮な句があり、神戸に暮らした日々をしるした散文(「神戸」など)の愛読者も多い。 小説では、「神戸」に書かれる前の三鬼と彼を取り巻く人々の姿を描く。シンガポールで歯科医院を開業し日本に戻って貿易商社を経営したことや、歯科医時代に俳句を始め、「京大俳句」事件に連座し逮捕されるといった伝記的事実のすきまに壮大なフィクションを滑り込ませ、どこがつなぎ目かわからない。 第一次「京大俳句」事件で逮捕者が出たあとも、中心人物であるはずの三鬼はしばらく逮捕されなかった。単に特高警察が泳がせていたというのではなく、三鬼と彼の一族が華僑や印僑との間で築いてきた人脈をシンガポール侵略に生かしたい思惑が陸軍にあり、陸軍と特高の間の綱引きがあったと描く。 新興俳句弾圧事件ほど「意味のない弾圧はなかった」という著者の言葉に深く納得させられる。「京大俳句」の会員も三鬼も、伝統俳句を刷新したい気持ちはあっても、わかりやすい反戦や体制批判句を書いたわけではない。だから怖い。 戦争に向かう国家にとって、「みなが同じ方向を向かねばならない時」に「別の方向を示唆するもの」が好ましくないのはよくわかる。ダンスやゴルフを好む「中年ドンファン」の三鬼はまったく戦争にふさわしくなく、そのぶん小説の中で強烈な輝きを放っている。 登場人物それぞれの後日談が語られるエピローグの、三鬼とともに商社で働いていた三橋に関する記述に、「筆者は若くして三橋敏雄の知己を得た」とあるのが目に留まった。三橋少年が三鬼を見つめていたように、著者も三橋と接し彼らの時代の空気を肌に感じてきたのだろう。 [レビュアー]佐久間文子(文芸ジャーナリスト) 1964年大阪府生まれ。1986年、朝日新聞社に入社。文化部、「AERA」、「週刊朝日」などで文芸や出版についての記事を執筆。2008年から書評欄の編集長を務め、2011年に退社。著書に『「文藝」戦後文学史』(河出書房新社)。 協力:新潮社 新潮社 週刊新潮 Book Bang編集部 新潮社