マッシヴ・アタックはなぜフジロックで“K-POPの原点”をカバーしたのか──その背景にある韓国の血の歴史

新潟・苗場スキー場で開催された「FUJI ROCK FESTIVAL '26」の最終日となった7月26日、メインステージであるGREEN STAGEのトリを飾ったMassive Attackのパフォーマンスは、全編を通して強烈な政治的メッセージに貫かれていた。彼らは巨大スクリーンを通じて監視社会、軍事産業、植民地主義への批判など、現代世界におけるさまざまな問題を告発。そんな緊張感のあるライブの中で、突如として映し出されたある言葉が観客を驚かせた。 「K-POPの誕生 その起源は政治への抵抗にある」 同時に爆音で鳴り響いたのは、K-POPの原点とも言われている韓国の伝説的グループ、ソテジ・ワ・アイドゥルが90年代に発表した楽曲「時代遺憾」のカバーだった。イギリスの大物バンドであるMassive Attackが、なぜ韓国のラップグループの楽曲を演奏したのか? 今や世界中を熱狂させるきらびやかなK-POPカルチャーの源流をたどると、そこには独裁政権の理不尽な検閲に抗い、表現の自由を勝ち取ってきた韓国の若者たちの歴史が存在する。そこでこの記事では「時代遺憾」の背景にある非常に複雑な韓国の近現代史、K-POPと政治、さらにMassive Attackがこのカバーを世界各国でパフォーマンスしている意図を解説する。 文 / 宮崎敬太 ■ 社会と戦ったソテジ・ワ・アイドゥル ソテジ・ワ・アイドゥルは、ソ・テジ、イ・ジュノ、ヤン・ヒョンソクの3人からなる、1992年にデビューした韓国のラップグループだ。メンバーのヤン・ヒョンソクはのちにBIGBANG、2NE1、BLACKPINKらを世に送り出す芸能事務所・YGエンターテインメントの創始者である。デビュー当初は批評家から「韓国語はラップに向いてない」と酷評されたが、ラップの新しさや、自分の意見を自由に表明できていることが10代の若者に刺さり、スターダムの階段を一気に駆け上がった。 ご存知の方も多いと思うが、K-POPの「カムバ(カムバック)」という概念を作ったのもソテジ・ワ・アイドゥルである。当時の韓国芸能界は、歌手が年間通してテレビや地方興行に酷使され、創作活動に専念できない悪習が常態化していた。グループの中心人物であるソ・テジは「芸能活動と創作は両立できない」と猛反発。1stアルバムの活動を終えると、次作の準備のために一切のメディア露出を断つ充電期間(潜伏期)に入った。テレビ局など芸能界からは激怒されたが、この充電スタイルが逆にファンの飢餓感を強烈に煽り、2ndアルバムは前作を超える大ヒットを記録。これが活動と休止を繰り返す「カムバックシステム」の起源となった。一方で、この完璧主義なスタイルが彼にさらなる重圧を与えたことは想像に難くない。 その重圧は、1995年10月に発表された4thアルバム「Seotaiji and Boys IV」で限界に達する。Massive Attackがカバーした「時代遺憾」はこのアルバムに収録されているのだが、リリース時はインストだった。というのも、その内容が韓国公演倫理委員会の事前審査(検閲)に引っかかったため、抗議として歌詞をすべて削除して収録したのだ。 しかも翌96年1月に、グループは突然解散を発表。ソ・テジは引退会見で「骨を削り、生肉を切り取るような苦痛の中で新しい音楽を作ってきたが、もう新しいアイデアが浮かばない。妥協した音楽は出したくない」と語り、アメリカへと旅立っていった。 突然の解散にファンたちは当初パニックに陥ったものの、ソ・テジの社会的なメッセージに感化されてきたことから、「今度は我々がソ・テジを救おう」と行動を起こす。それまでは単なる追っかけにすぎなかったファンの集団が、検閲という前時代的なシステムを変えるために立ち上がったのだ。 ■ 学生たちはなぜアイドルのために社会運動を始めたのか? Massive Attackは「時代遺憾」をカバーした「FUJI ROCK FESTIVAL'26」のステージで、1980年に発生した光州(クァンジュ)事件の映像などをスクリーンに流した。光州事件とは何か? いくら好きなアイドルが引退したとはいえ、なぜ学生たちは社会運動を始めたのか? ここに韓国の近現代史が絡んでくる。Massive Attackが掲げた「K-POPの起源は政治への抵抗にある」という言葉の真意、そしてソテジ・ワ・アイドゥルのファンを突き動かした背景を理解するために、もう少しだけ歴史のページをさかのぼってみよう。 日本の植民地支配が終わった1945年以降、韓国の市民は常に政府との戦いを強いられてきた。1953年に朝鮮戦争が休戦するも、半島は焦土と化し、世界最貧国の中で市民は飢えに苦しんだ。にもかかわらず大統領の李承晩(イ・スンマン)は異常な権力欲にとらわれ、1960年の選挙で筆舌に尽くし難い不正を行った。 その1つが、地方都市・大邱(テグ)で対立候補の演説を若者に聞かせないため、中高生を日曜日に強制登校させたこと。これに猛反発した学生1200人が行進し、約120人が逮捕された。さらに投票当日、馬山(マサン)では最初から与党の名前が書かれた偽の投票用紙が大量に用意されるという露骨な不正選挙が行われ、それに抗議する大規模なデモが起こった。このとき警察は多くの非武装のデモ隊に向けて催涙弾を水平発射。通常、鎮圧目的であれば空中に向けて撃つべき鉄の塊を人に向けて発砲し、中高生に多数の死傷者を出した。このとき行方不明となった少年が約1カ月後に、催涙弾が目に突き刺さって足に重りを付けた状態で海中から遺体となって発見されたことを機に、民衆の怒りは頂点に達し、独裁政権を打倒する全国的な抗議運動へと突入していく。 1960年4月18日、惨状を見かねた大学生たちがソウルで3000人規模のデモを行い、不正選挙のやり直しと独裁政権打破を叫んだ。大統領府へ向かったデモは平和的に終結したかに思われたが、参加者の一部が帰宅時に政権側の暴漢に襲撃され、数人が意識不明の重体となる。警察はそれを見て見ぬふりをした。 民放ラジオの速報や新聞の号外がこの暴挙を全国に伝えると、翌4月19日、ソウル、釜山(プサン)、光州、大邱、大田(テジョン)で学生が一斉蜂起した。全国の参加者は約25万人に達したと言われている。当時の韓国の人口は約2500万人。いかに多くの若者が立ち上がったかがわかるだろう。警察と学生は各地で衝突したが、特に激しかったのは約10万人が集まったソウルだった。警察は非武装のデモ隊に向けて発砲し、ソウルだけで100人以上の死者を出した。 だが、民衆は怯まず解散しなかった。その後、事態の収拾のため市内に軍が投入されたが、あまりの惨劇に軍は「市民に銃口は向けられない」と出動理由であるデモ鎮圧への協力を拒否。さらに全国の大学教授陣までが抗議デモを行い、ついに李承晩は退陣を表明した。これら一連の闘いは「4・19学生革命」と呼ばれている。 1987年の民主化によって改正された現行憲法の前文には、「大韓民国は不義に立ち向かった4・19民主理念を継承している」という文言が(一度の削除を経て)再び刻み込まれた。この劇的な民主化から9年後、ソテジ・ワ・アイドゥルのファンである学生たちは、今度は「表現の自由」を求めて立ち上がることになる。 ■ 「財閥」「パリパリ」「光州事件」 市民運動で独裁政権を打破したものの、韓国社会は安定するどころかさらに混迷を深めた。政治の迷走が続く中、抑圧から解放された市民によるデモが連日発生。さらに、4・19学生革命の主役だった学生たちは「南北の直接対話」を叫び、思想を先鋭化させていった。この急激な左傾化への危機感と社会混乱を突く形で、1961年5月16日、陸軍少将の朴正煕(パク・チョンヒ)がクーデターを決行。祖国の危機を救うという大義名分の下、再び長い激動の軍事独裁政権が誕生することとなる。この政権が敷いた徹底的な社会統制こそが、のちに若者たちの表現の自由を奪う国家検閲の土台となっていく。 韓国はここから「漢江の奇跡」と呼ばれる怒涛の経済成長を成し遂げる。その第一歩として朴正煕は、李承晩政権下で不正蓄財を行っていた経営者たちを次々と逮捕した。そして彼らの罪を免除する代償として、国家の経済開発計画への絶対的な協力を命令。国家が融資権を独占し、大統領の意向やノルマに従わない企業は容赦なく市場から排除(解体)した。韓国エンタメに必ず登場する財閥は、こうして国家の管理下で行われた、ドラマ「イカゲーム」さながらの苛烈な生存競争を勝ち抜いて誕生したのだ。 当然、その成長のツケは末端の労働者が払うことになる。市民は低賃金と、寝る間もないほどの超長時間労働を強いられ続けた。1970年には、劣悪すぎる労働環境に絶望した青年労働者・全泰壱(チョン・テイル)さんが「私たちは機械ではない」と叫んで焼身抗議する事件も起きた。国を挙げたこの限界寸前の突撃体制こそが、現代まで韓国社会に根付く「パリパリ(早く早く)」という超過密労働文化が生まれた真の背景である。 映画「KCIA 南山の部長たち」や「ソウルの春」の題材にもなったが、1979年10月に朴正煕は暗殺された。ついに民主化(ソウルの春)が期待されたが、わずか2カ月後の12月12日、陸軍の全斗煥(チョン・ドゥファン)が再びクーデターを起こし実権を掌握する。新たな独裁に反対するデモが全国で頻発する中、全斗煥は翌1980年5月17日、戒厳令を全国に拡大。さらに、全羅道・光州の精神的支柱であった野党の有力者・金大中(キム・デジュン)らを一斉に逮捕した。 地元・光州の学生たちはこの暴挙に猛反発し、翌5月18日から街頭で声を上げた。だが、全斗煥が彼らを鎮圧するために投入したのは、過酷な訓練を受けた軍の精鋭・空挺部隊だった。この空挺部隊による非道な無差別暴行が、光州の市民全体を激怒させ、市民が武器を取って立ち上がる「光州事件(5・18民主化運動)」へと発展していく。そして、この凄惨な血の鎮圧を経て誕生した全斗煥政権こそが、のちに若者たちの表現の自由を奪う徹底的な国家検閲システムを完成させることになる。 軍はデモ隊だけでなく、罪のない一般市民をも次々と虐殺したが、その事実は検閲により一切報道されなかった。5月19日から20日にかけて、怒りに燃える市民たちは連帯して武器を取り、軍との徹底抗戦に突入する。しかし5月27日、圧倒的な武力を前に市民軍の抵抗は完全に鎮圧されてしまった。のちに全斗煥はこの凄惨な事実を徹底的に隠蔽するため、市民軍におにぎりや水を配っただけの一般女性すら暴動幇助の罪で逮捕・投獄した。韓国内のメディアでは、この事件は一貫して「北朝鮮のスパイに扇動された暴動」だと歪めて報じられ続けた。 だが、映画「タクシー運転手 ~約束は海を越えて~」で描かれたように、国家が隠そうとした虐殺の真実は、ドイツ公共放送連盟の東京特派員であったユルゲン・ヒンツペーターによってフィルムに収められていた。 この映像は5月22日に西ドイツのニュースで放送されると全世界に衝撃を与え、日本のテレビや新聞、週刊誌でも大きく報道された。そしてこの海外の映像や報道の切り抜きが、のちに韓国内へ命がけで密輸入される。地下で秘密裏に上映された「光州の真実」は、嘘を信じ込まされていた多くの若者たちを覚醒させていった。同年9月、全斗煥は大統領に就任し独裁体制を固めるが、このときカメラが捉えた真実の記録は消えなかった。国家の検閲に抗い、映像や言葉で真実を伝える闘いこそが、1987年の民主化、そして1990年代にソテジ・ワ・アイドゥルのファンたちが起こす「表現の自由を求める社会運動」へと、脈々と受け継がれていくのである。 ■ 「沸点 ソウル・オン・ザ・ストリート」 「沸点 ソウル・オン・ザ・ストリート」という2009年に韓国で刊行されたグラフィックノベルの傑作がある。ここには1980年代がいかに厳しい時代だったのかが、学生、母親、父親、労働者、会社員、軍人というさまざまな視点から描かれている。前述したように、市民の間では少しずつ光州事件の真実が共有され始めていた。全斗煥は野球やサッカーといったエンタメを提供する一方で、KCIA(大韓民国中央情報部)を「国家安全企画部」と改称して、反抗的な学生たちを逮捕し、拷問し、北朝鮮のスパイだと濡れ衣を着せた。そんな中、1987年1月にソウル大学に通う朴鍾哲(パク・ジョンチョル)さんが突然逮捕される。警察は朴さんのサークルの先輩である活動家の行方を追っていたが、彼は警察の尋問に口を割らなかった。尋問は拷問に変わり、それでも黙秘した朴さんは水責めの末、亡くなった。政府はこの件について「机をドンと叩いたら驚いて死んだ」と発表した。 朴さんの遺体を見た医師や新聞記者が執念の取材を重ね、政府の欺瞞を告発するも、当局は現場にいた末端の刑事2人を処分する「トカゲの尻尾切り」で幕引きを図った。さらに全斗煥は4月、国民が熱望していた大統領直接選挙制への改憲を拒絶する「4・13護憲措置」を発表。これにより市民の怒りは完全に沸点を超えた。さらに6月、別の学生が警察の催涙弾を頭部に受けて重体になったことで、それまで静観していた会社員(ネクタイ部隊)までもが街頭にあふれ出した。 ここから始まった「6月民主抗争」では、逮捕リスクの高い激しい行進だけでなく、一般市民が日常の中で実践できるさまざまな抗議行動が編み出されていった。決まった時間に女性たちが窓からスカーフを振る、午後6時の時報とともにタクシーや乗用車が一斉にクラクションを鳴らす、意思表示として白いハンカチを鞄につける、といった戦術だ。歌う曲も、一部の活動家が歌う過激な歌ではなく、誰もが知っている国歌や童謡が選ばれた。これらは、武力でねじ伏せようとする警察に対し、「取り締まる権力よりも、反対している国民の数のほうが圧倒的に多い」という厳然たる事実を、最も平和的かつ効果的に突きつけるスマートな抵抗だった。 この市民の圧倒的なうねりに軍も出動を断念せざるを得ず、ついに政権は一歩後退。大統領直接選挙制の導入を受け入れる「6月29日民主化宣言」を勝ち取ることとなる。親たちが日常のアイデアと連帯で国家の独裁システムを崩壊させたこの原体験こそが、9年後、その子供世代であるソテジ・ワ・アイドゥルのファンたちが、国家検閲という前時代的な壁を破壊するために立ち上がる強力な思想的バックボーンとなったのである。 ■ 命がけの抗議と、スマートな意志表明の連帯 1987年の6月民主抗争では、前線で戦う学生たちを、背後からカトリック教会が強力に支援した。いくら全斗煥が強権的であっても、世界的なネットワークを持つローマ教皇庁(バチカン)に直結するカトリック教会を真正面から敵に回すことはできなかった。教会は韓国の民主化において極めて大きな盾となった。しかし、膠着した社会を動かす決定打となったのは、やはり学生の血だった。映画「1987、ある闘いの真実」でも描かれた延世大学の李韓烈(イ・ハニョル)さんである。 6月9日、大学門前でのデモに参加していた李さんは、警察隊が水平発射した鉄の塊である催涙弾が後頭部に直撃して昏睡状態に陥った(7月5日に死去)。李さんが血を流して倒れる決定的な瞬間を、ロイター通信の韓国人カメラマンが捉えていた。この写真を見た全国紙「中央日報」の記者たちは激怒。当時、社内に常駐して目を光らせていた政府の検閲官を力ずくで締め出し、厳戒態勢で輪転機を回した。こうして翌6月10日、検閲を突破した朝刊と号外が10万部以上街中にばら撒かれた。 水拷問で亡くなった朴さんに続き、またしても無実の若者が国家の理不尽な暴力の犠牲となった。1960年の4・19学生革命のときと同じように、国民の怒りはついに恐怖を打ち破った。運命の6月10日。午前中に全斗煥が自身の後継者として盧泰愚(ノ・テウ)を次期大統領候補に指名すると、これに抗議する市民のエネルギーが全国で爆発した。午後、ソウル大学や高麗大学などの数万人の学生が一斉に路上へ繰り出し、明洞や南大門は激しく噴射される催涙ガスで白く染まった。すると、周辺のオフィスビルにいた大人たち(ネクタイ部隊)が、学生たちの催涙ガスの痛みを和らげるために窓から水やトイレットペーパーを投げて支援を開始。夕方、終業時刻の17時を迎えると、今度はネクタイ部隊自身もオフィスを飛び出し、学生のデモ列に合流したのだ。 そして18時、時報とともにソウル、釜山、光州の街中で一斉に抗議のクラクションが鳴り響いた。市民と警察の激しい揉み合いは深夜まで続いた。このとき、警察の追跡を逃れた学生や市民を最後に包み込み、最終基地となったのが明洞聖堂をはじめとするカトリック教会だった。教会は文字通り、弾圧を跳ね返す「聖域」として機能した。この日常を巻き込んだ民衆の蜂起は翌日以降も全国へ拡大。約3週間に及ぶ激しい市街戦の末、ついに政権は屈した。6月29日、後継者の盧泰愚が国民の大統領直接選挙制要求を全面的に受け入れる「6・29民主化宣言」を発表。市民はついに、自らの手で独裁の歴史に終止符を打ったのである。 ■ 超でっかいスピーカーをクレーンで吊るして流行りのK-POPをガンガン流す 血のにじむような闘争を経て勝ち取った民主化。その歴史的背景があるからこそ、現代の韓国において「政治」や「抗議行動」は、日本の私たちが想像する以上に市民の日常と地続きになっている。K-POP関連の名著「K-POPはなぜ世界を熱くするのか」が2021年に刊行された際、著者の田中絵里菜氏にインタビューする機会があった。彼女は韓国における政治、そしてデモについてこう話していた。 “「韓国にいた時、よく『●●●の件について、日本人として絵里菜はどう思う?』みたいに聞かれたんです。でも日本の政治のことなんて全然知らないから何も答えられなかった。そうすると場が静まっちゃう。日本だと政治の話は友達同士でほとんどしないけど、韓国ではカジュアルにディスカッションするんです。同じノリで仕事が終わった後に『絵里菜もデモ行く?』『なんか楽しそうだから行っちゃおうかな』みたいな(笑)。デモも日本より敷居が低い。あとびっくりしたのが、朴槿恵の退陣を求めるデモで、超でっかいスピーカーをクレーンで吊るして、そこから流行りのK-POPが大音量でガンガン流れてるんです。そこでみんなが『朴槿恵、退陣しろー』と言ってて(笑)。終わったらみんなで焼肉を食べて帰る、みたいな」 (【日本と韓国 : 隣国で暮らしてみて Extra 】| Erinam)” 同じく名著「K-POP 新感覚のメディア」を執筆した金成玟氏は、筆者が行った2018年のインタビューでこう話している。 “「最近日本でも公開された映画『1987、ある闘いの真実』は韓国の過去の歴史をただ賛美した映画ではない。監督のチャン・ジュナンさんは、映画雑誌『CINE21』のインタビューで、この映画が『1987年のあの日以降も、なぜわれわれはこのようにわびしくて息苦しいのか?』『家の値段はなぜこんなにも高騰し、なぜわれわれはこんな姿をしているのか?』という今ここの質問につながってほしいと言っています。つまり韓国の人びとは自分たちの歴史について自問自答しながら議論し、さらに同じ視点で日本や中国とも向き合っているんです。韓国の人びとにとって『政治』というのは『自分たちと関係のない、偉い権力者たちがすること』ではなく、『自分たちの人生に直結する、自分たちがすること』である。だから彼らが朴槿恵さんを政権から引き摺り下ろしたときも、あれだけの多くの人がものすごく切実な気持ちで行動しているんですよね」 (BTSがアメリカでブレイクした理由とは? 「K-POP 新感覚のメディア」著者、金成玟さんが語る)” ■ ソテジ・ワ・アイドゥルとMassive Attack さて、ソテジ・ワ・アイドゥルのファンたちによる活動はどうなったのか。アルバム「Seotaiji and Boys IV」がリリースされた1995年10月、インストになった「時代遺憾」と、文字が消され空白となった歌詞カードを見た女子中高生を中心にしたファンは激怒した。彼女たちは検閲を行った公演倫理委員会、所管する文化体育部のオフィス、さらにはソテジに味方しないテレビ局(KBS、MBC、SBS)の番組制作室に、昼夜を問わず大量のFAXを送信し続けて回線をパンクさせた。 さらに11月には、政治の中心地であるソウル・汝矣島の国会議事堂前や街頭で、一般市民に向けた「レコード事前審議制(検閲制度)廃止」を求める大規模な署名運動を本格的にスタートさせた。それまで大人の社会から「盲目的な追っかけ」とさげすまれていた10代の少女たちが、かつて親世代が血を流して勝ち取った民主化のバトンを受け継ぎ、今度は表現の自由のために国家権力へ立ち向かったのである。 また彼女たちは国会議員の事務所へ直接赴き、「なぜ民主化された1990年代に、独裁時代の名残である検閲が私たちの音楽を殺すのか」と涙ながらに訴えかけた。この直訴はメディアで大きく報道され、世論を動かす。12月には、彼女たちの熱意に背中を押された国会議員たちによって「事前検閲の廃止」を盛り込んだ公演法改正案が国会へ正式に提出された。だが勝利を目前にした1996年1月、本稿の冒頭でも触れた通り、肝心のソテジ・ワ・アイドゥルが突然の解散を発表してしまう。一時期はパニックに陥ったファンだったが、彼女たちの連帯は崩れなかった。なんと女子中高生たちが中心となり、文化を守るための非営利NGO「ソテジ・ワ・アイドゥル記念事業会」を設立。これがソウル市に正式承認され、合法的かつ組織的な市民団体へと進化を遂げたのである。 少女たちの執念は、ついに国家の硬い扉をこじ開けた。1996年6月、事前審議制を撤廃する「公演法改正案」が可決。翌7月には憲法裁判所でも違憲判決が下され、30年以上にわたり表現の自由を縛り続けていた独裁政権の呪縛(事前検閲制度)は完全に崩壊した。そして同年7月、ついに本来の姿である“歌詞付きの「時代遺憾」”がシングルとしてリリースされ、歴史的な勝利の凱歌となった。1960年の4・19学生革命、1980年の光州事件、1987年の6月民主抗争。韓国の若者たちが血を流して国家権力から政治の民主化を勝ち取ってきた歴史のバトンは、1990年代、ソテジのファンである10代の少女たちへと確実に受け継がれ、「表現の自由」をもぎ取った。 「FUJI ROCK FESTIVAL '26」のステージでMassive Attackが「時代遺憾」を爆音で響かせ、光州事件の映像を重ね合わせた理由が、ここにある。彼らは、ポップカルチャーの力で理不尽なシステムを破壊し、自由を勝ち取ってきた韓国の若者たちの「抵抗のDNA」に対し、最大級の敬意と連帯のビートを刻んだのである。 ■ フジロックの夜に響いた爆音が、私たちに問いかけるもの なお、ソ・テジ自身は「時代遺憾」のためにファンが国会で戦っていることを、療養先のアメリカで知った。彼はのちのインタビューでこう語っている。 「あまりのプレッシャーに耐えかねて、自分はファンの前から逃げるように引退してしまった。なのに、僕の残した音楽を守るためにファンが国家と戦ってくれている。申し訳なさと、言葉にできないほどの感謝で涙が出た」 時を同じくして、ソテジとは別軸で映画制作者団体が訴えていた「映画の事前検閲は違憲だ」という裁判に対しても、憲法裁判所は同年10月、「すべての文化に対する事前検閲は、憲法が保障する『表現の自由』に違反するものであり、完全に違憲である」という歴史的な判決を下した。 1910年の日本統治時代に始まり、朴正煕・全斗煥の軍事独裁政権によって強化されてきた「国家検閲システム」が、国会と司法の双方から、ついに完全撤廃された瞬間だった。「K-POPの誕生、その起源は政治への抵抗にある」。「FUJI ROCK FESTIVAL '26」のステージでMassive Attackがこれらの経緯をどこまで把握していたかはわからない。だが事実として、かつて理不尽な政治や弾圧に対して、純粋な心で「おかしい」と声を上げ、血を流し、FAXを送り続けた若者たちの闘いこそが、世界を熱狂させる現在のK-POPの土台(DNA)を作ったのだ。爆音の「時代遺憾」と光州事件の映像が交錯したあの夜、私たちはただの音楽ではなく、自由を勝ち取ってきた民衆の果てしない足跡を目撃していたのである。 こちらも有名な話だが、2016年に朴槿恵政権の退陣へとつながる大きな引き金となったデモにおいて、梨花女子大学の学生たちは警察の鎮圧部隊を前に、少女時代のデビュー曲「Into The New World(巡り会う世界)」をスクラムを組みながら歌って抵抗した。 この歴史的な光景は、ドラマ「ライブ ~君こそが生きる理由~」の序盤にも生々しく登場する。そこには、国家の命令によって、無抵抗な同世代の女学生たちと対峙し、彼女たちを力ずくで排除しなければならない末端の新人警察官(機動隊)側の痛切な視点から、この国が抱える構造的な悲劇が描かれている。 日本において、K-POPも、映画も、ドラマも、現在は洗練された上質なエンタテインメントとして消費されている。しかし、韓国をはじめとする世界において、それらは単なる娯楽ではない。個人では到底太刀打ちできないような強大な国家権力や不条理な暴力、社会の閉塞感に対して、市民が「私たちはここにいる」と声を上げ、連帯を証明するための、最も強力な闘争ツール(道具)としても機能してきたのである。 なお、Massive Attackが育ったイギリスの港町ブリストルは、かつて奴隷貿易で栄え、戦後はジャマイカをはじめカリブ海にルーツを持つ移民が多く暮らす複雑な歴史を持つ街だった。彼らの前身グループであるWild Bunchは、人種差別や貧困が渦巻く、極めて危険だったブリストル北部のストリートで活動を始めた。だが、彼らがレゲエのサウンドシステムから響かせた爆音のヒップホップやダブは、ルーツも、肌の色も、言葉の訛りも関係なく、差別され抑圧されていた現地の若者たちを瞬く間にユニティ(団結)させていった。国家の暴力や差別に音楽で抗ってきた彼ら自身の生い立ちの背景があるからこそ、Massive Attackは海を越えた韓国のソテジが残した「時代遺憾」という抵抗の音楽に、深い共感を覚えたのかもしれない。音楽は、壁を壊すためにある。しかし、この世界にはまだ壊すべき壁が無数に存在している。フジロックの夜に響いた爆音は、その冷徹な真実を、今も私たちに問いかけている。 ■ 宮崎敬太 1977年神奈川生まれのインタビュアー / ライター。K-POPや日本語ラップを中心にオールジャンルで執筆している。

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