裁判官という存在は、多くの人にとって、それほどなじみあるものではないかもしれません。 一方で裁判官という仕事は、人の自由や、時には命を奪うことすらある、きわめて影響力の大きなものです。 いったい、裁判官は何を考えているのか。どのような思いで仕事をしているのか。その影響力のわりに、わたしたち市民は、彼らの実態をあまりに知らなさすぎるのかもしれません。 裁判官の実態を知るのに最適な一冊が、ジャーナリストの岩瀬達哉氏による『裁判官も人である』です。100人を超える裁判官に取材し、裁判官の生態をつぶさに描き出した本書は2020年に刊行され、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しました。 本書には、意外な裁判官の姿が多数描かれています。たとえば本書によれば、裁判官の「優等生気質」が、当の裁判所によって問題視された時期があったそうです。『裁判官も人である』よりその部分を引用します。 *** 視えない「統制」によって萎縮する若手裁判官や、そのプレッシャーから不祥事を起こす裁判官は、裁判所にとって古くて新しい問題だ。 2002年2月、山口繁最高裁長官の肝いりで、「裁判官の在り方を考える」と題した研究会が開かれたことがある。背景には、当時、毎月のように新聞紙面を賑わしていた裁判官の不祥事があった。 2001年3月には、福岡高裁の判事が裁判官の職業倫理に反したとして、最高裁から戒告処分をうけている。処分の理由は、同判事の妻が、伝言ダイヤルで知り合った男性にストーカー行為を繰り返し、逮捕状の請求がなされた際、同判事は、福岡地検から極秘に得た情報をもとに証拠隠滅を働いていた疑いがあるというものだ。 また同年9月には、神戸地裁の所長が電車内で痴漢行為を働いた嫌疑で書類送検され、11月には、少女買春で有罪が確定していた東京高裁の判事が、国会の弾劾裁判所で裁判官資格剝奪の罷免判決を受けている。 先の研究会は、それらの問題を「特異例」として片付けるのではなく、発生原因を究明するとともに、若手裁判官の育成について活発な意見交換をおこなうため開かれたものだ。研究会の出席メンバーは、当時の仙台高等裁判所長官で、その後、第16代最高裁長官となった島田仁郎ほか、地裁、家裁のベテラン裁判官が5人。それに講師として招かれた3人の裁判官OBが参加し、霞が関の「法曹会館」でおこなわれた。 「高裁長官、地家裁所長限り」と断り書きのついた同研究会の速記録は、A4判77ページ。参加者の発言は匿名化されているものの、その率直な指摘や問題提起は息をのむ迫力だ。出席者のひとりは、萎縮し、意見を言わない若手裁判官が生まれる原因を、裁判所の階層と管理体制にあるとしてこう語っている。 「部総括(註・裁判長のこと)が、自分は自由な発言をプラス評価するつもりであるから積極的に言えと言っても、言われた側としては、ひょっとして落とし穴かも知れない、落とし穴じゃなくても本当にその様な評価をして貰えるかどうか分からないし、ひょっとして更に上の方の代行(註・地裁の所長代行)だの所長だのは別の考えかも知れないではないか、また、部総括が短期間内に替わってしまって考えの違う部総括になったら、ミゼラブルな状態にならないとも限らない、いろんなことを全方位的に考えると、やっぱり安心な部分でしか物を言わない方が得策ではないか。言うと火傷をするかも知れないというふうに感じている人がかなりいると感じます」 幼稚園の頃から、とびきりよくできると誉めそやされ、優等生として走り続けてきた彼らは挫折を知らず、下積み経験もなく育ってきた。まさに、エリート層の「上澄み」であり、もともと正解指向で怪我をすることをひどく恐れている。 正解指向の問題点は、「なぜ正解かという理屈を考えないで、こういう問題だったらこれが正解と機械的に覚えちゃっている」点にあると別の出席者は指摘する。 「正解指向は何が悪いかというと、思考放棄だから悪いのですね。思考を放棄しているから、すぐ、答えは何ですかと聞きたがる。そうではなくて、自分の頭で考えて、最適解にたどり着くという過程をきちんとこなせなければ、裁判官としての基本を欠くことになる」 加えて、彼らの上司である裁判長すらが、「隣の裁判長から電話がかかってきたときと、所長なり所長代行からかかってきたときに急に声色を変えているというようなことを、陪席とか修習生はよく見ている。やっぱり、どうしても上を見てしまう。自分たちが実は萎縮していることは、ある意味で事実だと私自身も思います」と、もうひとりの出席者は語っている。 裁判長が、上司の前で萎縮し、最高裁に睨まれることを恐れている「司法官僚」だとすれば、若い裁判官や、裁判官志望の修習生が、その雰囲気から学ばないことなどありえないだろう。 判決内容を決める合議においても、裁判長と先輩裁判官を前に、若手裁判官は「『私はこうだと思っている』というようにファイナルな、自分なりの結論まで詰めた意見を述べる人は比較的少ない」との意見も出された。 「反対意見にあった場合に、怪我がないようにして退却し、或いは修正する。この場合、一旦、自分なりの詰めた意見を言った上で修正するのならよいのですが、多くの場合に、相手に下駄を預けるような形で物を言う傾向が強いように思うのです。そういう傾向を生じるのは、裁判所組織は、内部で、足を引っ張ることに長けた組織だということも原因の一つだと私は思っています」 法服を着て、法壇に座る威厳に満ちた裁判官たちもまた、人事権を持つ「所長がどちらを向いているかということばっかり気にしている」のが実態なのだという。 「個人的には私は言いたいことを言って暮らしてきたので、裁判所の中でそんな不自由感なんかはないし、最高裁批判、公然と飲みながら言ったりしてたこともあるんですね。だけど、一般的に見る印象としては、やっぱり、そういうことを言ったら何をされるか分からないというような不安感みたいなのがかなりあったと思います」 憲法で保障されているはずの「裁判官の独立」と「身分保障」は、外部からの干渉には強くても、内部を支配する組織の論理の前では、ほとんど意味をなしていないといえそうだ。 実際、この研究会の速記録さえ外部に漏れることを恐れ、一般裁判官には配付されなかった。彼らには、A4判16ページに編集されたダイジェスト版が配られただけで、せっかくの成果もじゅうぶん生かされることなく終わっていたのである。 ***