昨年9月、ジョン・ガリアーノのドキュメンタリー映画がロードショーされました。そのタイトルが「ジョン・ガリアーノ 世界一愚かな天才デザイナー」です。 ジョンは 2011年クリスチャン・ディオールのデザイナーとして人気実力とも絶頂期に、反ユダヤ主義的暴言を吐き逮捕され全てを失いました。この映画は天才デザイナーの転落というより、一人の社会人が自ら招いた暴言により社会から抹殺された後の贖罪の日々を明らかにしています。 監督のケヴィン・マクドナルドはドキュメンタリー映画で才能を発揮していますが「ファッションについては何も知らなかった」と言います。ケヴィンは2020年からジョンのインタビューを始め、3年の月日をかけて完成させました。 ■ 24歳の天才の10年 ジョン・ガリアーノは 1984年ロンドンのセントマーチンズ美術学校の卒業作品で一躍注目されます。セントマーチンズは世界中から学生が集まる人気校でロンドンのファッション協会とも連携し、その卒業制作ショーは世界中のジャーナリストからも注目されています。その後もアレキサンダー・マックイーン、ステラ・マッカートニーなどを輩出している名門校です。 卒業時若干24歳でファッション界の寵児となり、翌年には自身の名前のブランドでロンドンコレクションデビューを果たしました。通常は卒業後どこかのブランドでアシスタントを経験しキャリアを積んでから独立します。学生の卒業作品は今までの概念を壊し、新しい手法と美しさを打ち出しますがプレタポルテとしてビジネスを意識したものではありません。ジョンは何の社会経験もないまま自分のブランドの発表をパリに移します。ロンドンはプレタを作る生産工場が少なく、ヨーロッパの中でもポンドは高く量産体制が作りにくい環境です。またコレクションはニューヨーク、ロンドン、ミラノ、パリと各国で開催されますがパリコレクションの存在は絶大です。世界中からジャーナリスト3,000人、バイヤー3,000人が集まる巨大ビジネスの場なのです。そして多くのデザイナーがパリを最終的な発表の場として選び、イタリアやフランスに生産背景を作ります。 ジョンがパリコレクションで発表する見せ筋のショーアイテムは市場には受け入れられませんでした。経済的にも厳しい状態に陥りビジネスに伸び悩んでいた1994年、業界関係者のサポートで発表したコレクションをきっかけにLVMH(モエ・ヘネシー・ルイヴィトン)の会長兼CEOのベルナール・アルノー氏と契約を結びます。これがその後の彼の人生を大きく変えた瞬間でした。 ■ ディオールのジョン・ガリアーノ 数シーズン、LVMHが所有するジバンシーでコレクション(クチュールとプレタポルテ)を発表した後ディオールのデザイナーに抜擢されます。ディオールはLVMHグループの中で最も大切にされている老舗ブランドで、まさにラグジュアリーブランドの頂点と言える存在です。そのビジネス規模はジバンシーの数十倍。ジョンによるジバンシー、ディオールのパリコレクションはずっと観てきましたが毎シーズンスケールが大きくなり服のデザイナーを超え、ブランドイメージを作り上げるプロデューサーになってゆきます。そしてファッションショー自体 がエンターテイメントとなっていった時代でした。 ■ 消費される才能 ある時は、パリ東駅のホームを占有しモデルたちを乗せた オリエント急行が到着しキャットウォークが始まりました。夏のクチュールコレクションではヴェルサイユ宮殿の鏡の間でショーを発表した後、庭園で夜中までパーティーを開催しました。フィナーレに登場するガリアーノ自身もある時はナポレオンになったりある時は海賊に変装したりと現実離れした虚飾の世界に入っていったのです。 ジョンは年間32のコレクションを発表するスケジュールに追いかけられ逃げ場を探します。通常コレクションは年2回、春夏と秋冬ですが、ディオールの場合はプレタにクチュール、メンズに加えクルーズ(梅春)ホリデー(クリスマスシーズン)などパリだけでなく世界各地で大規模なショーを開催していました。ジョンは毎日、自分の能力や体力をすり減らし壊れながらコレクションを続けていたのです。映画の中でジョンは語ります。「デザイナーに期待される生産量は、まだ正しくない」 逃げ場として3つの依存症を併発します。アルコール、薬物(精神安定剤)そして一番大きかったのは仕事依存症です。大きな組織の中のリーダー的な歯車となった時、自身と向き合う時間も無く仕事を続け消耗していったのです。 彼がマレー地区(ユダヤ人が多く住んでいる場所)のカフェで反ユダヤ主義的暴言を吐いた事件。ファッション業界はユダヤ人が多く、当時のディオールのCEO、シドニー・トレダノ氏もユダヤ系でした。ジョンの日常では言うはずもない暴言でした。映画ではトレダノ氏のインタビューも登場し、事件の8年後にやっとジョンを許した心境を語ります。この映画は今なお続く人種差別や社会問題にも言及しています。和解後、トレダノ氏の計らいでジョンがディオールクチュールのアトリエを訪れるシーンは、人種を超えメゾンの中で仕事をしてきたスタッフたちとの人間模様を感じさせます。 大量生産、大量消費の時代は終わり、持続可能なSDGsがファッション業界でも尊重されている中、ラグジュアリーブランドのコレクションはまだまだ勢いを見せています。また近年目覚ましいのはデザイナーの交代劇です。ジョンはディオールのデザイナーを15年務めましたが2015年以降、ラフ・シモンズ3年、マリア・グラツィア・キウリは現在で8年になります。デザイナーの消費期限はどんどん短くなりクリエイティビティより、売上の低下によるデザイナー交代が常です。ラグジュアリーブランドのデザイナーに抜擢されることは栄誉なことであり一生贅沢ができる生活も保証されます。ただ短期間で膨大な仕事量をこなし充電できる余裕もなく飽きられると交代させられているのが現状です。 ■ メゾン・マルタン・マルジェラでのジョン・ガリアーノの仕事 ジョンは贖罪の日々を過ごしながら、2014年メゾン・マルタン・マルジェラのクリエイティブ・ディレクターとして電撃復帰します。メゾン・マルタン・マルジェラの創立者マルジェラは早くに引退、ブランドをイタリアの会社OTBに売りました。ジョンはマルジェラのプレタラインを1年に1回、3月にパリで、クチュールラインのアルティザナルコレクションを1年に1回、1月にパリで、と年2回コレクションを発表し続けました。1年に1回でも通年魅力ある作品を世の中に打ち出すサイクルを選んだのです。それでもマルジェラの売り上げは順調に伸び、店舗も増えました。ジョンがコレクションサイクルの新しい形をを提案したのです。この 10 年でジョンがマルジェラのクリエイティブ・ディレクターに適任だったと確信させてくれました。 映画は、ジョンがパリ中心地にあるマルジェラの自分のオフィスの階段を駆け上ってゆくところで終わります。それがとても希望を感じさせるフィナーレでしたが、12月マルジェラのデザイナー契約が10年を迎え終了となりました。次シーズンはOTB社が所有するディーゼルのデザイナー、グレン・マーティンスが就任し、二つのブランドを兼務します。世代交代なのでしょうか? やはりインデペンデンス(オーナー兼デザイナー)でないと同じブランドで活動してゆくのは困難な時代のようです。ジョンのこの先の活躍にも期待したいです。