オウム真理教による地下鉄サリン事件の発生から、20日で30年を迎える。元教祖の麻原彰晃元死刑囚=本名・松本智津夫、執行時(63)=が立ち上げた団体は10年ほどの間に急速に勢力を広げてカルト化し、日本だけでなく世界を震撼(しんかん)させる一連の犯罪行為を起こすに至った。「オウム」はなぜ生まれ、暴走したのか。公安調査庁の資料などをもとに、改めて振り返る。 ■「空中浮揚」で拡大 そもそもの始まりは昭和59年、麻原元死刑囚がヨガ修行道場「オウム神仙の会」を設立したことだった。オカルトブームに乗り、脚を組んで座る「蓮華(れんげ)座」から空中で一時停止する「空中浮揚」の写真を雑誌に売り込むなどして構成員を増やしていった。 62年に団体名を「オウム真理教」へと改称し、平成元年には宗教法人格も取得。山梨県の旧上九一色村(現富士河口湖町、甲府市)に「サティアン」と称する信徒らの活動拠点兼居住施設を建設するなど、平成5年には約1万人の構成員を抱える大組織へと成長を遂げた。 高学歴の信者もおり、一連の事件で死刑が執行された中には、東大や京大大学院、筑波大大学院などに進学した者、医大に進んで麻原元死刑囚の主治医的な役割を務めた者もいた。 ■衆院選で落選、弁護士一家を殺害 《彰晃、彰晃~♪》 平成2年、麻原元死刑囚らは「真理党」を結成し、衆院選に出馬した。麻原元死刑囚が統治する「祭政一致の専制国家体制」を樹立するためだったとされる。独特な拍子の歌を披露するなど奇抜な活動を展開、メディアの注目を集めたが、結果は出馬した25人全員が落選という惨敗だった。 公安調査庁はこの挫折を機に教団が先鋭化したとみている。ただ、密教とヒンドゥー教の教えを独自に組み合わせた「タントラ・ヴァジラヤーナ」など、麻原元死刑囚の指示であれば殺人も肯定する危険な教義は既に生まれており、事件も起きていた。 元年2月、教団から与えられた業務への疑問を口にし、脱会しようとした信者を殺害。同年11月には、こうした信者らへの脱会支援や、「布施」と称する寄付の不当性を訴え「オウム真理教被害対策弁護団」の中心となって活動していた坂本堤弁護士=当時(33)=と妻、1歳の息子を殺害した。遺体は山中に別々に遺棄された。 信者脱会にからむ殺人事件は、この後も相次いだ。