「あの犯罪の罪悪感を背負っていく必要はない」オウムの子どもたちを保護 児童相談所の職員が見つめた心の軌跡

3月20日は14人の命が奪われ、6000人以上の人が巻き込まれた地下鉄サリン事件から30年。 この2日後には山梨県の旧上九一色村にあったオウム真理教の教団施設に強制捜査が入りました。 当時の山梨の人たちがどのようにオウム真理教と対峙していったのか、その深層を探っていきます。 当時の児童相談所の職員は、一時保護されたオウムの子どもたちと90日間にわたり向き合うこととなりました。 強制捜査から約3週間後、1995年4月14日。 旧上九一色村のオウム真理教教団施設。 オウム施設から保護される信者の子ども: 「いやだー」「お父さんいる。お父さんいる」 当時の記者: 「今、女の子がまたひとり、乗用車に乗せられます。次々に抱えられて、抱っこされて来る子もいます」 信者が暮らしていたオウム真理教、第10サティアン。 その中には親と一緒に出家した子どもたちもいました。 学校には通っておらず、劣悪な環境での生活。 警察は子どもたちの保護を決断し、4歳から14歳までの53人が甲府市にあった山梨県中央児童相談所で一時保護されます。 元 山梨県中央児童相談所 職員 保坂三雄さん: 「かわいそうという感じよりも別世界から来た人、ある種の怖さ、不気味さを感じましたね」 当時、児童相談所で子どもたちの心理治療などを担う判定課の課長だった保坂三雄さん(78) 「オウムの子どもたち」との90日間が始まります。 保坂さん: 「(オウムの)教えが絶対ですね、教え以外はないわけです。それどころか自分で考えるということ、それもしなくなるんですね。思考停止になっちゃうんですよ」 UTYでは当時の子どもたちが残した日記を入手しました。そこには… ー子どもたちの日記の言葉ー 「テレビや新聞でオウムのことを見た。マスコミや警察はひどいと思った。でっち上げもいい加減にしろ」 「はやくオウム真理教に返せ」 保坂さん: 「我々は敵ですから、違う現世的なものを我々が吹き込むことに対しては敵意を持つんでしょうね。ですから甘い、おいしい、楽しいとか、一切言いません。これは修行の妨げになりますから」 「聞くんです。『おいしかった?』『おいしくない』『楽しかった?』『楽しくない』みんな言うわけですよ」 実際、オウムの施設で暮らしていた当時の子どもたちは…

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