茨城県日立市で’17年10月、就寝中の妻子6人を殺害し自宅に放火した『日立妻子6人殺害事件』の被告・小松博文(40)の上告が今年の2月21日に最高裁で棄却されて死刑が確定することとなった。 YouTubeチャンネル『日影のこえ』では、日々のニュースに埋もれ、忘れ去られてしまいがちな事件や事故の当事者などの“声”を独自取材しており、’22年には書籍『日影のこえ メディアが伝えない重大事件のもう一つの真実』(鉄人社)も上梓している。 同チャンネル取材班は裁判開始前から小松死刑囚を取材していたが、あるときを境に彼が“豹変”してしまったために距離をおくようになったという。その一部始終を動画をもとに構成する。 ◆取材班が触れていた“死刑への覚悟” 《私は柄受け人(ガラうけにん)等が居りません。吊るされるまで何か、一石を投じることができればと思っています。》(原文ママ・以下同) 手紙には裁判が始まる前から、死刑判決を受け入れる覚悟が滲んでいた。そして、この手紙から7年後の’25年2月、手紙の主は予言通り死刑判決が確定した。 小松博文(ひろふみ)死刑囚(40)。 ’17年、茨城県日立市で妻と3歳から11歳までの子供5人を包丁で刺すなどして殺害。殺人の罪などに問われていた男だった。実は私たちはこの小松死刑囚と、手紙や面会で何度も連絡を取り合っていたのだ。だが、その交流は’21年を最後に途絶えてしまった。正確に言うと、こちらから手紙を出すことを止めた、のだった。その理由は小松自身がまるで別人のように変化してしまったことにある。彼に起きていたこととは……。 《差し入れの件OKかNGかだけでも返事くださいますか? その件をまずはっきりして頂いてから決めまので。(原文ママ)》(’20年8月17日の手紙より) 妻と子供、計6人を殺害した小松博文死刑囚。まずはその半生を裁判資料や面会での本人の弁から振り返る。 ◆まともになろうと決意しても、結局は変われなかった 小松は1984年に東京・江戸川区で生まれ、物心がついた頃に千葉県八街(やちまた)市に引っ越した。高校を中退し建設業の仕事に就いたが何をやっても長続きすることはなかった。仕事をサボり、顔を出しづらくなるとそのまま仕事を辞めるということを繰り返していた。 それでも’09年、25歳のときに父親が亡くなったのを機にまともになろうと決意した小松は、事件の舞台となった茨城県日立市に引っ越し、再起を誓った。そんなときに病院の事務で働いていた妻と出会う。彼女はシングルマザーだったが、出会いから3ヵ月後には小松の子供を宿している。だが、愛する人ができても、守るべき子供ができても、小松は結局、無免許運転で逮捕されたり、相変わらず仕事を転々とすることを繰り返していた。 そしてついに妻から「最後のチャンス」と言われていた仕事からも逃げ出して離婚を告げられる。小松はそのとき、妻のLINEを盗み見たという。妻は生活のためにスナックで働き始めていたのだが、その客との親しげなやり取りが積み重ねられていた。それを見て頭が真っ白になってしまい、妻子を手にかけたという。 実は小松には、少なくとも罪と向き合おうとしていた時期があった。週刊文春や朝日新聞などに手記を送り、罪を隠すこともなく事件を赤裸々に語っていたのだった。朝日新聞にはその真意をこう書いている。 《人を殺すなんて実際に殺した人にしかわからない。話すことで事件の抑止力になればと思っています。》 私たちも、小松に初めて手紙を送ったのはこの時期だった。’18年11月15日に最初の手紙では、私たちにもこう語っている。 《確定したら連絡を取る事等が不可能になってしまうので決してこういう(取材を受ける)事が償いの一部になるとは毛頭思っていませんが吊るされるまで何か一石を投じることができればと思っています。》 ◆連絡が途絶え…態度が豹変 手紙の文字も非常に丁寧で、面会に行けば礼儀正しく、受け答えに真摯に向き合っていた。死刑になることも当然だと口にすることもあった。ただ、この初めての手紙の直後、1年ほどやり取りが途絶えてしまう。日立警察署や、水戸拘置所など拘留されていると思われる場所に手紙を送っても戻って来てしまうことが続いたのだ。 そして再び連絡が取れるようになったとき、小松は以前私たちが接していたのと同一人物とは思えないほどに変わってしまっていたのだ──。このとき何が起きていたのか。のちに小松自身が語っている。 《正直に申しますと覚えておりません。昨年(’19年)の二月に退院し、医師が常に居ることから二月末に水戸刑務所の方に来ました。一時心肺停止になり人工心肺を使用した様です。》(’20年7月30日の手紙より) 《当時体重が110キロ位あったのですが、退院時73キロで今ムショ飯で9キロ太り82です。》(’20年8月3日の手紙より) 小松は心不全にかかり、一時意識を失ったことで事件の記憶を失ったという。以前に比べ手紙の文字も乱れ、事件と向き合おうという姿勢すら失われているように見えた。その後の手紙では事件のことは覚えていないと一言ですまし、ひたすら差し入れを望む文言がつづられていた。 ’20年8月11日の手紙で小松が送ってきた“欲しいものリスト”の中には数万円するような洋服も。さらにはこんな文言もあった。 《子供たちの写真に備えるコーヒー、ココア、ウインナーを6人分お願いしたいのです。》(’20年8月11日) ◆「何か心外です」と逆ギレ 小松が殺めた子供は3歳から11歳。幼い子供のぶんまでコーヒーを要求する小松に対して疑念が浮かぶ。3歳の子供にはコーヒーより相応しいものがあるのではないだろうか。自分がコーヒーを飲みたいならそう言えばいい。 記憶を失う前に朝日新聞に掲載された記事にはこんな記述も残されている。 《手元にある200枚以上の子どもたちの写真を見られずにいるという。事件を起こした実感が湧くのが怖いからだといい、「事件に向き合ってしまうと、自分が壊れてしまうのではないか」と淡々と話す。》(’18年10月6日の朝日新聞より) しかし、裁判では、情状酌量を訴えるためか、現在も毎日子供の写真に手を合わせていると主張。それに対して検察から「事件の記憶がないのになぜ手を合わせる?」と返されてしどろもどろになっていた。少なくともコーヒー6人分というのは自分が欲しい嗜好品のために自らが殺めた子供をダシに使ったのではないだろうか。そんな疑問を率直にぶつけるとこんな手紙が返ってきた。 《何か心外です。(大手メディアの差し入れは)一人十万ではきかないと思います。(中略)私は信頼度=差入れだと考えます。》(’20年8月28日) 私たちは小松から自然と距離を取るようになっていった。 ’25年2月、小松博文の上告は棄却され死刑が確定した。ただ、大きく報道されることはなかった。小松の主な主張は記憶を失っている以上、裁判を打ち切るべきだというモノだった。判例的にも国民感情的にも死刑回避の理由にならないことは明らかだろう。 ただ、驚いたこともある。天涯孤独と言っていた小松の名字が変わっていたことだった。誰かと養子縁組をして新たな親族を得たのだろう。一方でメディアはベタ記事だけをうち、小松の心情に迫ろうとする記事は皆無だった。 小松の本当の姿とは、自身の罪を認めて極刑も受け容れようとする姿なのか、記憶を失い差し入れだけをせがみ続けた姿なのかは今も分からない。しかし、私たちに見せた“豹変ぶり”からは、大罪を犯してもなお変わらない小松の独善的な素顔が垣間見えたような気がした。 YouTubeチャンネル『日影のこえ』