<創刊60年年中企画①>大韓民国の決定的瞬間60場面…87年の「ネクタイ部隊」

■創刊60年年中企画①87年「ネクタイ部隊」 「現金2039万9690ウォン、48ドル、1000円、トークン6個、回数券6枚、サイダー6箱、軟膏・ガーゼ2箱、1680人寄付」。1987年6月、明洞(ミョンドン)聖堂の座り込み日誌には大統領直選制という当時のみんなの民主化への熱望があふれていた。蚕室(チャムシル)体育館で民正党が盧泰愚(ノ・テウ)氏を大統領候補に確定した10日に同時開催された「護憲撤廃国民大会」。明洞聖堂で警察に追われやってきた学生・撤去民らの6日間の座り込みは、現在自分たちの手で大統領を選ぶようにした歴史の山場だった。全斗煥(チョン・ドゥファン)政権が直選制を受け入れる「6・29宣言」を出すしかなくなったのはこの民主主義への熱望だった。別のことを考える暇さえなかったこの民主化から38年。韓国の民主主義は多くの期待の誤り、後退で挫折を迎えている。だが6月のあの日の情熱だけは韓国の歴史の最も誇らしい場面だったことは否めない。あの6月をまず取り戻してみることは韓国の民主主義の未来へのスタートラインでもある。 ◇ネクタイ部隊は大学生をかばい、女子高生は弁当を渡した 当時、聖堂で座り込んでいた金富謙(キム・ブギョム)元首相。「聖堂の隣の啓星(ケソン)女子高校の生徒が自分たちの弁当を渡してくれた。昼休みに周辺の路地には市民、特にネクタイを締めたサラリーマンがいっぱいだった。聖堂を守ろうと取り囲んだ形だ。屋上から植木鉢やごみを投げ進入しようとしていた警察を防いだ。私の生涯で最も感激的な記憶はあの日のあそこだった」。「お姉さん、お兄さんが立派な仕事をしているのを知っています」その女子高生たちの手紙だった。市民らのメモにも省察や希望が込められた。「時代の痛みをともにするのに常にみなさんに至らなかった平凡なサラリーマン69人と食堂主人」「お母さんはみんな泣いている。自分たちの世代の間違いで子どもたちを武器の前に立たせた無念さに」(「民主化運動記念事業会」資料より)。民主化の突破口を開いたのは金寿煥(キム・スファン)枢機卿だった。強制鎮圧の通知に対抗した彼の短い声明。「聖堂に入ってくれば最初に私と出会うだろう。それから神父たち、その後に修道女たち。学生たちは修道女たちの後ろだ。だから彼らを逮捕するには私と神父、修道女を踏みにじって行かなければならない」。 衝撃が返ってきたのは全斗煥大統領。建国(コングク)大学を占拠した学生1288人を拘束した彼だった。しかし13日の関係閣僚会議では「街頭デモに市民が同調・支持する新しく深刻な状況」(高建内務長官)を迎えた。世情を知らない学生たちの不満程度だと思ったら、働いているサラリーマンたちが…。「彼らは死生決断の態勢に出ているのにわれわれはそうでないようです」。政治を戦闘と考えた軍出身大統領の嘆き。大挙増えたサラリーマンら100万人が26日に結集し、彼のこの愚痴は6月29日の投降前、塹壕の中での最後の抵抗になった。 民主化の触媒、「ネクタイ部隊」はかみしめるべき教訓を残した。あの時間は韓国経済跳躍のピークだった。1987年を挟んだ前後3年、86年に11.3%、87年に12.7%、88年に12.0%成長する好況。中産層拡大指標である株価も3年間で69.9%、92.6%、72.8%と急騰した。明洞の金融会社社員であり安定した中産層のサラリーマンがこれまで見守ってきたのは政権主導の産業化の中で大企業の特恵と集中、政経癒着、労働者の人権排除などだった。長期にわたる政治的沈黙を破らせたのは、権利そして自由な市場の空気に対する渇望だった。ほとんどすべての自由民主主義は中産層ブルジョアの参加により前進してきた。清教徒革命、名誉革命、フランス大革命、米国独立革命…。民主主義と経済成長はだからお互いを土壌として共生・牽引・進化していかなくてはならないコインの裏表だ。 ◇87年「明洞の記憶」その後…配慮と包容の民主主義が切実 極端な理念の変革は決して成功できないという気付きも残した。大規模前哨戦に当たる1986年5月3日の仁川(インチョン)抗争には「米帝・ファッショ打倒」「労働者が主人になる3民憲法」「仁川を解放区に」が乱舞した。金泳三(キム・ヨンサム)氏、金大中(キム・デジュン)氏までその後は距離を置く逆効果だった。4・19革命、6月抗争直後に浮き立った大学生の「行こう北へ、来たれ南へ、会おう板門店(パンムンジョム)で」もやはり響かなかった。「自由民主主義」のガードレールを抜け出したものには決して反応しなかったのが韓国の歴史だ。「民主主義の発展的履行は執権層内の合理的改革派と民主化陣営の穏健派が結合しなければならない」(ニューヨーク大学アダム・プシェボルスキ教授)ということを6月は証明した。事実上の5年単任制「談合」だったが民主化の成果もやはり否定できない。盧泰愚大統領は忍耐で脱権威主義履行を導き、金泳三大統領は民主化を妨げた旧体制の遺産を除去し、ハナ会を清算して金融実名制を導入した。金大中大統領もやはり和解の政治で患難を克服させた。しかしあれほど苦労して植えた民主主義という木はますます弱まっていることを気付かせるのに長い時間はかからなかった。民主化の歓喜も鎮まった2002年。ある政治学者が洞察する。ハンナラ党の数百億ウォン単位の不正選挙資金、大統領の息子の腐敗で政治がどん底に陥った時だった。経済もやはりいつも政権の手中から自由でなかった。「民主化後に韓国社会は質的にさらに悪くなった。政党は多様化した市民の要求を反映することも、民主的にもできない。政治エリートはオール・オア・ナッシングの権力争闘の場に民主主義を悪化させた」。崔章集(チェ・ジャンジブ)教授の『民主化以降の民主主義』からだ。6月広場で鳴り響いた『その日がくれば』を作った文昇鉉(ムン・スンヒョン)でさえ「自分たちの手で選べば良くなると思っていた。なのになぜ毎日あのように争い、幸せでもないのか」と反問した。戒厳後に再び集まったあの時のネクタイ部隊は「1987人声明」で問い質した。「私たちが夢見た国は主権者がまともに主権を行使する民主共和国だ。しかしその夢はなぜ依然として未完成なのか」。 ◇帝王の密室にはいつも背後勢力が隠れていた 多くの民主主義の定義のうち、心に響くのは「敗者が耐えられない、堪えられない代価を払わせないようにすること」だ。だから選挙の敗者、少数の包容・配慮でなくてはならない。必然的な混乱を対話と調整で解く「対立・分裂の管理」が民主主義の尺度だ。しかし定期的な普通選挙、政党間の争いの政権交代など「民主主義の入口」だけ通過した韓国は依然としてもとの位置だ。いや戒厳と弾劾という退行の危機だ。 最大の原因? 「帝王的大統領制」だ。勝者だけが正義とばかりにすべてを独占する大統領、すべてを失う野党だから常に闘争だ。「5年単任大統領責任制は、実状は5年間何の責任も負わない無責任制」(元恵栄元議員)ということを知るようになった。最も公的な、最も民主的なものは最も透明なものだ。だが帝王の密室にはいつも背後勢力が隠れていた。息子、崔順実(チェ・スンシル)を経て、令夫人、法師、世論調査ブローカーまで。消えた政治を特検・検察捜査と拒否権が代わり、「だれも自分の事案の裁判官になることを許容してはならない」(ジェームズ・マディソン)という三権分立まで危機だ。「相互寛容」と「制度的自制」が消えた政治があの夜の戒厳を生んだ。 政党もやはり帝王から分け与えられる既得権に中毒となり、長い間非民主的経路から抜け出せずにいる。目の前の「われわれ側の勝利」だけが唯一の目標で、上からの公認虐殺(民主党)、深夜1時間の候補擁立登録(国民の力)のような民主主義圧殺の連続だ。相手に対する憎しみをあおる以外に人物・政策は重要ではなくなった。得票用ポピュリズムを除けば2つの政党のどんな選挙公約の違いを覚えているのか。本当に庶民、少数は果たしてだれが代弁するのか。勝者総取りゲームの選択肢がいつも2つだけで、総選挙は5%の得票差で71議席多く獲得するオールイン賭博選挙だ。毎日集まって「争い」を企画する所、それがいまの韓国の政党だ。 ◇権利だけ追わず公益に向けた節制・調和を 正しくあるべき市民社会まで両陣営に分かれ汚染されて久しい。代価と支持を対等交換する「政治的後見主義」の罠に閉じ込められた。双方向のコミュニケーションツールとして期待されたSNSさえ権力争奪の武器として動員され、「デジタル戦闘の巣」になってしまった。首都圏と地方、大企業と中小企業、労と使、正規職と非正規職の対立と大学の垂直序列化はなぜ常に慢性的に残ったのか。民主化のプレゼントであるべきだった包容・共生・配慮・多元化の失敗のせいだ。 再び生かしていこう。決して完ぺきではないが決して代案がないのが民主主義だ。民意がまともに、まんべんなく反映され、敗者も抱きしめる選挙制改革、適切な権力分散で帝王を防ぐ制度の改憲が切実だ。1987年憲法体制の効用と役目は終わった。自由と権利だけ追う代わりに、公共善に向けた責任・節制・調和の民主共和的市民が大切になった。何より民主主義を育てようとするあの6月の明洞の熱望、初心、参加がよみがえらなければならない時代だ。 ■中央日報創刊60年、大韓民国60の場面…各界のリーダー・諮問団選定 このように躍動的な国がほかにあるだろうか。光復(解放)80年。世界で最も貧しい国のひとつだった韓国は韓国戦争(朝鮮戦争)の惨禍を乗り越え、経済・文化・市民意識など多くの分野で先進国の隊列に上がった。世界の人たちが韓国製品を使い、K-POPを歌う。国防を韓国製武器に任せる国も増加している。非常戒厳を防いだ韓国のデモ文化すら探求対象だ。その一方で二極化はますます深刻化している。「2人だけ産んでしっかり育てよう」と叫びまくった人口急増問題は世界でも類例を探すことのできない少子化に反転した。 何が韓国をこのように変えたのだろうか。中央日報は今年創刊60周年を迎え、現在の韓国を作った決定的契機(トリガー)を調べてみた。政治、官界、学界、産業・金融界、法曹界、文化・スポーツ界、市民団体を網羅し125人のオピニオンリーダーを対象に質問し、諮問団を別途構成して最も重要な60のトリガーを選び出した。トリガーはどのように現れ進行したのか、韓国の政治・経済・社会・文化にどんな影響を及ぼしたのか、現在に与える教訓は何かをシリーズで掲載する。 ◇諮問団=申福竜(シン・ボクリョン)元建国(コングク)大学客員教授(元韓国政治外交史学会長)、李完範(イ・ワンボム)韓国学中央研究院教授(現代韓国研究所長)、キム・ドゥオル明智(ミョンジ)大学教授(韓国経済史学会長)

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