野球バットを持って「サッカー場」に入ってきた極右政党【寄稿】

最近ドイツでは、反憲法的な極右政党「ドイツのための選択肢(AfD)」の解散の可能性が再び政治の争点として浮上している。6月末のドイツ社会民主党(SPD)の全党大会で、AfDの解散準備のためのタスクフォースの設置が決まったことがきっかけだった。これについて、AfDのアリス・ワイデル共同代表は、SPDが「ヒットラーの手法」をまねているとして、「暗い時代が迫っている」と非難した。この発言には、極右政党特有の四つの操作戦略が含まれている。 一つ目は、加害者と被害者をひっくり返す戦略だ。自分たちを迫害されている犠牲者としてよそおい、批判の本質を曇らせ、同情の世論を誘導する。 二つ目に、「もっともらしい否定の可能性(plausible deniability)」を活用する。表面上はヒットラーを批判するが、実際には、AfDの中心路線はナチズムに似ている。憲法擁護庁がAfDを反憲法的政党と規定した理由の一つは、党指導部が極右イデオロギーから距離を置こうとしないためだ。このように表と裏で違う態度を通じて、極右イデオロギーとの関係を否定する余地を残している。 三つ目に、ワイデル代表はSPDが民主的制度と手続きを損ねていると主張するが、実際にはAfDこそが司法府と憲法機関を「政治化された敵対勢力」だと罵り、メディアを「偽りの報道機関」だと攻撃している。議会内でも、議事進行を妨害したり、わざと会議を中断させたりするなど、形式的な権限を乱用し、議会自体を麻痺させる戦略をたびたび駆使している。 四つ目に、真実と半分の真実、嘘をたくみに混ぜた物語を拡散する。一部が事実であるため、陰謀論に脆弱な人たちはすべてを信じてしまいがちだ。しかし、ヒットラーが政敵を除去した暴力的手法と、現在の解散議論を同一線上に置くことはできない。前者は独裁樹立が目的だったのに対し、後者は民主主義を守るための憲法上の防衛措置だからだ。もちろん、民主主義の原則上、政党は解散より政治的に克服することが望ましい。しかし問題は、AfDがそもそも同じルールを認めていないという点にある。ある憲法学者の会は、これを「野球バットを持ってサッカー場に入ってきたようなもの」だと表現した。構造的な脅威の前では、単純な政治的対応だけでは不十分になりかねず、したがって、時には断固たる措置が必要だ。また、AfDの支持率は25%前後を維持しており、暴力指向団体との連携も多数確認されているなど、AfDの脅威がただの空想ではないことを示している。 この議論はドイツだけの問題ではない。12・3内乱事態後の韓国でも、野党「国民の力」の解散要求が高まっており、その声は党内部からも出ている。もちろん、韓国はドイツではなく、「国民の力」はAfDではないが、民主主義制度に対する手法には驚くべき共通点が見いだせる。「国民の力」は戒厳令の解除を妨げようと試み、大統領弾劾案も組織的に阻止した。さらに、「国民の力」の議員40人あまりは、尹錫悦(ユン・ソクヨル)前大統領の逮捕を阻止するため、官邸の前で人間の盾を形成したりもした。また、極右のユーチューブ・チャンネルでの活発な活動や、極右団体のデモへの積極的な参加、極右の暴徒によるソウル西部地裁襲撃事件に対する沈黙あるいは暗黙の支持なども、問題として指摘されている。弾劾後も、党内クーデターすらも厭わず、党指導部は親尹錫悦派の人物で埋め、内部改革の議論は徹底的に封じ込められている。 こうしたなか、「国民の力」も被害者を装い真実を歪曲する戦略を積極的に活用している。与党「共に民主党」の法案処理を「ヒットラー式独裁」にたとえ、尹錫悦前大統領を「政治司法」のスケープゴートだと主張する点も、AfDに似ている。尹前大統領側が憲法裁判所で事実と嘘を混ぜた主張で本質を曇らせる手法もまた、民主主義と法治主義を同時に損ねている。 ならば、「国民の力」も解散しなければならないのだろうか。断言はできない。しかし、民主主義を守るための最後の手段として、政党解散という選択肢を無条件で排除してはならない。 ハンネス・モスラー (カン・ミノ) | ドイツ・デュースブルク-エッセン大学政治学部教授 (お問い合わせ [email protected] )

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