帝銀事件 平沢貞通元死刑囚のテンペラ画 長崎県諫早で発見 「眼鏡橋」描いたか

1948年の帝銀事件で逮捕され、無実を訴えながら獄死した平沢貞通元死刑囚(1892~1987年)が、大正期から事件前までの間に描いたとみられるテンペラ画が長崎県諫早市内の民家で見つかった。市の名所「眼鏡橋」を想起させる橋が描かれ、研究者は「平沢が使っていた雅号が書かれており、平沢の作品と相違ないと思われる」と分析。来年は昭和100年、激動の昭和史を物語る“残像”が諫早に残っていた。 見つかったのは同市八坂町の民家。昨年春に解体後、所有者の古賀文朗さん(84)が荷物の中から額縁入りの絵を発見した。絵は縦27センチ、横38センチ。二連アーチ橋や家屋、川などが板カンバスに描かれている。左下に黒のローマ字で「TAISHO HIRASAWA」の雅号が入っていた。 平沢作品を研究する京都芸術大大学院芸術研究科芸術専攻の矢部恵子さん(59)=東京都=によると、「TAISHO」は平沢の雅号の一つ「大暲(たいしょう)」にあたり、25、26歳頃の大正期から逮捕された48年まで使用。「平沢が得意としたテンペラ画と思われる。自然の風景を明るい色彩で優雅に描き、平沢の作品によく見られる風景画とも通じている」と指摘。テンペラ画は卵と顔料で作った絵の具を使い、時が経過しても変色が少ないとされる。 事件による誹謗(ひぼう)中傷で散逸したり、処分されたりした作品が多く、矢部さんによると、作品総数は現時点ではっきりしない。「大暲」の雅号で公式展覧会に出品した作品は、ほぼ現存せず、北海道などの美術館や個人が若干数を所蔵する。 矢部さんは研究の過程で平沢の画集と出合い「萌芽(ほうが)期から大成期、獄中生活まで四つの雅号を持つ画家として再評価すべきだ」として、2年前、東京の画廊で絵画展を開き、記録集を刊行。現在、平沢作品のリスト化を進めている。 「この作品は初めて見た。平沢が長崎を訪れた記録は現時点で把握していない。自分の目で見て描くことを基本とした画家。実際に取材して描いたものではないかと考える。いつ、何の目的で描いたのかは不明だが平沢の画題を研究する上で興味深い作品」とした。 古賀さんの父廣太さん(2005年に99歳で死去)は1931年から44年まで諫早で漁網会社を経営。古賀さんは「名士だった父が市内に投宿した画家から買い求めたのでは。その由来を聞いたことはない」と推測。絵の裏側に紙をはがした跡があり「事件の咎(とが)が及ぶのを恐れ、紙を破ったのではないか」とみる。 眼鏡橋は1839年、市中心部の本明川に架けられた石橋。1957年の諫早大水害で損壊し、廣太さん宅は高さ2メートル近くまで室内に浸水したが、高所にあった絵は難を免れた。その後、眼鏡橋は諫早公園内に移築され、水害の記憶とともに語り継がれている。古賀さんは「大水害前の眼鏡橋が描かれ、諫早の財産になるだろう。市内の公的機関に預け、多くの人に見てほしい」と今後は市内での活用を望んでいる。

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