韓国の近現代史で、「カネ」に関して最も切迫した交渉がなされた場面を取り上げるとすれば、奉朝賀(元高位官僚に与えられる名誉職)の李裕元(イ・ユウォン、1814~1888)を全権大臣に、戸曹参判(戸口、貢物などを担当する行政機関の補佐官)の金弘集(キム・ホンジプ、1842~1896)を副大臣とする朝鮮代表団が急遽、済物浦(チェムルポ)に向かった1882年8月28日の夜のことを思い浮かべざるを得ない。その1カ月ほど前の7月23日、ソウルで閔(ミン)氏一族の腐敗に対抗した旧式軍人の暴動である壬午軍乱が発生した。大院君の秘密の指示を受けた彼らはその日午後、閔氏政権が推進した開放政策の象徴だった日本公使館を攻撃した。かろうじて朝鮮を脱出した駐朝鮮公使の花房義質の一行は6日後の29日、長崎に到着し、ソウルの公使館が襲撃された事実を打電する。 急報に驚いた井上馨外務卿は31日、緊急閣議を招集し、朝鮮に公式謝罪▽被害・遺族に対する賠償と補償▽主導者の逮捕・処罰だけでなく、▽被害・消耗した軍備の賠償▽朝鮮政府の責任が大きい場合、巨済島(コジェド)または松島(ソンド/鬱陵島)の割譲まで要求する方針を決めた。さらに、朝鮮が誠意を示さない場合、武力を用いて仁川(インチョン)を占領することにした。このために、熊本に配置されていた1個大隊の兵力を、金剛・比叡・日進などの4隻の軍艦と3隻の運送船に乗せて、朝鮮に急派した。 焦った金弘集一行が花房と顔を合わせたのは、28日夜10時ごろのことだった。朝鮮は今後5年間に50万円に達する損害金を支払えとの日本の「非道な要求」を受け入れてしまった。毎年絞り出さなければならない10万円は、当時の年間歳入の7%に達する巨額だった。 交渉に参加した者たちの心境はどうだっただろうか。金弘集は、壬午軍乱を収拾するために派遣された清の馬建忠に書いた手紙に「やむなく条約を強要されたことが、恥ずかしくて悔しくて死にたい(慚恨欲死)」と書いた。馬建忠は金弘集について「朝鮮で時務について話す者のなかで最も傑出した人物(翹楚:雑木の森で高くそびて立つシラカシ)」という評価をしていた。そのような有能な人物でさえ、日本の非道な軍事力の前では有効な対策を取れなかったのだ。 歴史の悲劇は繰り返されるのだろうか。米国のドナルド・トランプ大統領が強要する3500億ドル(約51兆円)を前に、われわれは再び金弘集になっている。「薄情な」(!)日本が4日に米国の要求を全面的に受け入れる協定書(MOU)に署名したことで、韓国の身動きの幅はかなり狭まった。米国と日本の覚書を紐解くと、日本が米国に投資するという5500億ドル(約81兆円)の投資先を決めるのはトランプ大統領(第1項)であり、投資は彼の任期内の2029年1月19日までに、随時行わなければならない(第2項)としながらも、日本は、米国が投資先を決めたら、それが通知されてから45営業日が経過した日に、指定口座にただちに使用可能な資金をドルで振り込まなければならない(第7項)という内容で構成されている。米国のハワード・ラトニック商務長官は11日、CNBCのインタビューで、「韓国に対する柔軟性はない」として、「韓国人はディールを受け入れるか、関税を支払わなければならない」と言い切った。韓国政府はさまざまな面で努力していると思われるが、冷静に考えれば、われわれの前には、日本とほぼ同じ内容の協定書を受け入れるか、7月30日の合意を無効にして25%に達する相互関税と自動車の品目別関税を受け入れる選択肢しか残されていないと思われる。遠からず彼らは韓国経済の「心臓」である半導体に狙いを定め、新たな品目別関税を打ち出すだろう。その後はどうなることか。 日清戦争開戦の主役だった「カミソリ大臣」と呼ばれる陸奥宗光外相は、回顧録『蹇々録』の最後に「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」(誰にこの仕事を任せたとしても、他の策はなかったと信じたい)という感想を書いた。歴史の重要な局面で、ひとりのリーダーが直面することになる状況は、漆黒のような真っ暗な夜に、羅針盤もなしに広い海に進まなければならない船長の境遇と変わりはない。陸奥は「他の策はなかった」とはせず、「他の策はなかったと信じたい」と書いた。自身が耐え抜いた歴史の重さを、「なかったこと」を「信じたい」という意志と希望を込めた二つの留保の表現のなかに込めたのだ。 金弘集は死にたいと言ったが、2年後に日本は賠償金の80%にあたる40万円を帳消しにした。トランプ大統領の任期はあと3年で、協定書には法的拘束力はない。李在明(イ・ジェミョン)大統領は恥ずかしくて悔しくて死にたいだろうが、耐えて生き残る道はあるだろう。そう信じたい。 キル・ユンヒョン|論説委員 (お問い合わせ [email protected] )