上崎孝一。 これはコチアの下元健吉を狙ってピニェイロスの組合本部に接近、逮捕された三人の内の一人である。日高によると、竹を割ったような性格だったという。 この上崎が出所後、コチアの本部を訪れ、職員に堂々と、 「俺は昔、ここの親方をヤリに来た」 と話した。すると、その職員は、 「そうか、それなら当時、下元の護衛をしていた男がいるから会って行け」 と、連れてきた。その元護衛も、 「そうか、そうか」 と懐かしそうに昔を想い出し、さらに、こう言ったそうである。 「守るも攻めるも、国のため…だ」 マリリアで事件を起こし相手に重傷を負わせた猿橋俊雄は服役後、パラナ州のクリチーバに行き、いわゆるラジオ屋になった。ラジオ屋というのは放送局から三十分とか一時間とかの単位で電波を買い、日本語の番組を流した人々の通称である。 戦後、このラジオ屋が、雨後の筍の様に、アチコチで生まれたが、殆どがアナウンサーから広告主探し、その他の雑務を一人またはごく少数でこなしていた。 猿橋も同じだった。 この仕事は人に接することが多い。他人を銃撃、重傷を負わせ服役していた人間には、どうかと思われる仕事である。 が、彼は堂々とやった。地元の邦人社会は、それを受け入れていた。無論、前歴を知った上である。 猿橋は、ほかにも色々仕事をしたが、すべて客商売だった。 友人と組んで歌謡大会を主催したこともあるが、その友人というのが、元敗戦派であった。 親族や知人から聞いた処では、猿橋は至極明るい性格であったという。 明るいといえば、筆者が会った決行者は皆、明るかった。 日本から来る新聞やテレビの取材者に彼らを紹介すると、大抵、意外な顔をした。日本では考えられないことの様だった 次は、襲撃事件の当事者ではないが、カンポス・ド・ジョルドンの木村きよみの話である。(住まいは隣村レノポリス) ここの農業者は以前からコチア産組の組合員になっていた。 そのコチアは、終戦後、下元健吉の主導により、認識運動を強力に推進した。ために組合職員や敗戦派の組合員たちが、戦勝派…特にその中心的存在であった木村家に、敗戦を認識するよう、強く求めた。 きよみは言う。 「しつっこく、それをしたンですヨ。何故? 勝ったと思わせておけばいいじゃありませんか…」 既述したことであるが、四月一日事件の後、カンポスからは、木村親子を含め計十二人の臣道連盟員がアンシエッタへ島流しとなった。小さな邦人集団地としては、驚くほど多い。 留守宅では、女たちが代わりを務めた。が、敗戦認識を迫るコチアを辞めたために、生産物の販売ルートを失った。 きよみは彼女たちとリオへ行った。販路を探すためである。幸い引き受けてくれる人が見つかった。 しかし、 「島送りになった人の家族は(敗戦派から)随分と嫌がらせを受けました。カマラーダを高賃金で引き抜かれるとか…仕事ができないようにされました。ここから出ていくように悪辣なことをされました。 夕方になると、組合事務所の人が、近くで鉄砲を撃つ、続けて…。それは私たちを威嚇しているようでした。 迫害でした。戦時中、ブラジル人にやられたのは、敵地に居るのだからと…まだ諦めがつきました。が、隣りの日本人や組合にやられたのですから…」 と、きよみは恨みを込めて思い出し、さらにこう続けた。 「私は仕事でも何でも、絶対人に負けまいとしました。 そういう母親の気持ちが判ったのでしょう、害意を持つ人が訪ねてくると、ウチの子供が棒切れを持って、私のここに来て(腰の当たりに子供の頭がくる仕草をして)相手を睨みつけていました」 一年数カ月後に夫が、二年数カ月後に舅が、釈放されて帰宅した。 舅のときは、カンポスの非日系の大物七人が身元保証人になってくれた。が、高齢の舅は間もなく死んだ。 木村家の営農規模は拡大した。主作物は桃に変わったが、かなり大規模に出荷するほどになった。 その間、スール・ブラジル農協に加入した。夫の正治は地域の役員を務めた。一九七九年、故人となった。 一九九三年、アンシエッタへの島流しから半世紀近く経った。きよみは、すでに七十を越していた。この年、コチアの瓦解が表面化した。翌年、解散した時。きよみは、 「ワッ!」 と、両手を挙げて喜んだ。