26年目の“熟年離婚”…「池田大作氏を国会招致させない」「政教分離攻撃から組織を守る」公明党の与党連立の原点

公明党が自民党との連立から離脱した。票の切れ目が縁の切れ目だったのだろうか。そもそもなぜ公明党は、自民党と組んだのか。 公明党が結党されたのは1964年、アジア初となる東京五輪が開催され、東海道新幹線が開通するなど、日本が戦後復興から高度経済成長期に突入する転換点となる、象徴的な年だった。1970年、創価学会総会で当時の池田大作会長は政教分離について「創価学会と公明の関係は、あくまでも制度の上で明確に分離していく原則をさらに貫いていく」と発言。 公明党は1965年の参院選で11議席、さらに1967年の衆院選で25議席を獲得。当時の選挙制度は、1つの選挙区から複数の当選者が出るため、小政党が単独でも「中道野党」として一定の存在感を示すことができた。 最初の転換点となったのは、結党29年後の1993年だった。自民党が今と同じように過半数割れを起こしていた中、非自民8党会派の連立で細川政権が誕生し、初めて政権与党となった。公明党からは4人が入閣した。 だが1994年に細川政権が倒れ、羽田政権を経て、再び政権交代。6月に「自社さ」連立の村山内閣が発足し、野党に戻った公明党は、解党までして小沢一郎氏らが主導する新進党に飲み込まれる形で参加した。 自民党は「創価学会に事実上支配されている公明党が政権に参加して権力を行使するのは、憲法20条の『政教分離』に反するのではないか」と、亀井静香氏ら保守系重鎮は1994年2月、「憲法20条を考える会」を結成して執拗にせめ立てた。この会には当時1年生議員だった安倍晋三氏も参加したとされる。 しかし、新進党に参加した公明党は、選挙での無類の強さを見せ付けて、自民党を震えさせた。保守2大政党のもとで、片側に会員世帯数が827万世帯(創価学会HPより)の宗教団体がバックにつく。身の危険を感じた当時の自民党は、野党・新進党を内部破壊するため、内部の公明党を徹底攻撃する。池田大作名誉会長への国会招致を要求した。 これに学会幹部や公明出身の新進党議員は、「信教の自由への侵害だ」として、国会内で猛抗議活動を展開。結果的に、当時の秋谷栄之助会長が招致され、池田氏の国会招致は阻止できた。 この頃、旧公明党議員の1人は、自民党側から「新進党を離れて元の公明党に戻り、自民党に協力すれば、創価学会攻撃は終わるだろう」とささやかれたと証言する。自民党の狙い通り、新進党は内部崩壊し、1997年に解党。そして1999年、公明党は再び与党入りを選び、自民党と自由党との「自自公」連立に参加した。 自民と組んだ理由。創価学会の牧口常三郎初代会長は、治安維持法で捕られて獄中死。2代目の戸田城聖会長も投獄されたことがある。戦後も第3代池田大作会長が、公職選挙法違反の疑いで、警察に逮捕・勾留された(その後に無罪判決)。新進党時代の自民からの執拗な宗教攻撃から身を守る必要性が、自民との連立につながったと指摘される。 加えて、小選挙区での選挙協力だ。1人しか受からない小選挙区制で、少数政党が安定して議席を得るには、自民党のような大政党と組み、選挙協力をするしかない。自公連立が誕生したきっかけをたどれば、政策よりも「与党で居続けること」「組むことで選挙に勝てるか」が基準となって26年間続いた。 2014年、安倍政権下で他国が攻撃されたときに助太刀する集団的自衛権の一部容認を含む安保法制の閣議決定・法改正でも、公明の理念とは真逆の法案だったが、当時の山口那津男代表は「政策の不一致で連立離脱はない」と断言するなど、自民への協力を惜しまなかった。 ただ、創価学会内部では、選挙の実働部隊と呼ばれる女性部(旧婦人部)を中心に不満が募っていった。学会歴38年のA氏は「連立に対して納得していない部分があっても、『連立だから』という理由で、国政や都政など公明党議員が出ていないところは自民党を応援する形を取った。では自民党はどうだったか。その中でも折り合いを付けて私たちは応援してきたが、自民党としてそこは関係ない」と語る。 それでも学会員が自公連立を容認したのは、池田氏が最終判断をしたとされるからだ。それゆえ自公連立の批判は「名誉会長に背く」ことになる。しかしながら池田氏は、2023年11月に95歳で死去した。 その直後、自民党に派閥の政治資金問題が浮上した。自民党の政党支持率の下落に巻き込まれるように、公明党も選挙に連敗。2024年の衆院選では、当時の石井啓一代表も落選した。もっとも重要視する東京都議会でも惨敗し、支持母体の学会員たちも我慢の限界だった。 A氏は「私たちの信教の自由まで奪われかねない懸念がある。国会でも今まで政教分離が議論された。“平和のために”公明党を支持しているのだが、そこをみなさん間違えている。“宗教が応援している”みたいな感覚が嫌だった。自民党幹部は言葉を知らないのか。自民党員しかいないから大口をたたいたり、いらないことしか言わない自民党の人たち。とくに選挙中、これでもかというくらい自民党の失言や、お金の問題が出てきたが、本当にいい加減にしてもらいたい。与党というだけで、ある意味、私たちも被害者だ。今まで応援してくれた人も『自民党がいるから応援したくない』とか。一番腹立たしかった」と憤る。 今後はどうなるのか。公明党内では、すでにいろいろなシナリオが想定されている。衆院比例のみ擁立する小選挙区撤退論や、比例を含めての衆選からの撤退論。現状の日本政治では、参院で20〜30議席あれば、常にキャスティングボートを握れる可能性がある。高齢化した学会員に負担を強いる衆院から撤退し、参院と地方選挙に専念する。そんな大きな路線変更も、内部ではささやかれているという。 「(国民民主党の)玉木雄一郎氏を私は一切認めない。どんなに人気があろうと、女性として許せない。なんでみんな許してしまうのだろう」(A氏) ジャーナリストの青山和弘氏が解説する。「元々この連立は公明党という組織を守るために組まれた。与党でいることで、政教分離を含めて攻撃を受けない。そういったことが原点のため、与党で居続けることが自己目的化してきた点がある。とくに池田大作名誉会長の証人喚問を要求された衝撃は大きかった。自民党側も公明党が新進党だった時代、相手の野党で各選挙区で2万票出すことが脅威だった」。 こうした経緯から、「自公連立はWin-Winの関係で始まったため、“2つの理由”に加えて『なかなか離れないだろう』という甘えもあった」と説明する。「池田名誉会長が亡くなったのもターニングポイントかもしれない。今も存命で違う指令を出していたら、違う結果になっていたかもしれない。ただ池田氏も過去の著作で、『公明党は独立してやっていかないといけない』みたいな文言を残していて、いま学会員は、それを読んでいるという」。 そのため、「学会や公明党としての結束が固まる部分はある」としつつ、「選挙そのものは厳しいが、比例代表で残るなど、いろいろな生き方があり、今後はそれを模索していく。もし総裁がかわることがあれば、連立に戻るという可能性は、斉藤鉄夫代表はまだ含みを持たせている」と解説した。 (『ABEMA的ニュースショー』より)

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