逮捕直前、50歳で自ら命を絶った衆院議員・新井将敬。その新井の弁護士として、東京地検特捜部と真正面から対峙していたのが、元検事の猪狩俊郎(33期)だった。 ふたりが初めて顔を合わせたのは、事件発覚の半年前、1997年8月12日。 東京・赤坂の中華料理店「山王飯店」。きっかけは、猪狩が顧問を務めていた知人の社長からの一本の電話だった。 「新井さんが東京地検特捜部から、日興証券での取引資料の提出を求められ、対応に苦慮している。相談に乗ってもらえないか」 この依頼が、ふたりを結びつけることになる。以後、猪狩は弁護士として、東京地検特捜部との折衝の最前線に立った。やがて新井は、日興証券の元役員にも猪狩を紹介し、検察に対して明確な対決姿勢を示していく。 しかし、事態は急転した。取り調べの過程で、その元役員が「総会屋・小池隆一から要求されて利益提供を行った」と供述したのである。その瞬間から、新井を取り巻く状況は一気に崩れ始めた。 なぜ新井は追い詰められたのか。弁護士の猪狩は、どう行動し、そして新井の死をどう受け止めたのか。捜査関係者や当事者への取材をもとに、封印されていた捜査の舞台裏を検証する。 ■新井を追い込んだ「能天気といっていいアドバイス」とは 新井将敬衆院議員の顧問役の弁護士を務めていた猪狩俊郎は、新井との出会いを自著の中でこう記している。 「テレビ討論会で政治改革の志士として、当時、茶の間の絶大な人気を得ていたように、会って見れば凛とした容貌にやや愁いを帯びた表情ながら、弁舌さわやかで好感の持てる人物だった。それまでどのような政治家にも大なり小なりインチキ臭さを抱いていたのだが、そうした私の先入観を払拭してくれるような印象だった」 山王飯店での初対面の翌日、新井は早くも猪狩の「一番町総合法律事務所」を訪ね、ある相談を持ちかけた。 「東京地検特捜部から資料の提出を求められましたーーそれは、親族が主催し、自分も支援している『B&Bの会』という、通信衛星ネットワークを活用した事業を研究する会と、親族が経営する投資会社『ヴォーロ』の資料です」 「古くからの知り合いで元女性検事のA弁護士のアドバイスに従い、自分の証券取引履歴などの資料をすべて提出してしまいましたが、今後、特捜部がどのような対応をしてくるのか見当がつきません」