1980年の光州(クァンジュ)抗争から韓国社会が数十年間にわたり地道に築き上げてきた基準が崩れた。ソウル市民は、軍人を乗せたヘリコプターが移動する音を聞き、震え上がった。銃を持つ軍人たちが国会に乱入し、市民と対立した。唖然として、涙がこぼれた。銃刀でわが国を奪い取ることはできない。弾劾や下野は決まったものと思われる。しかし、十分でない。必ず行われなければならない手続きは、尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領をはじめとする内乱勢力に対する「処罰」だ。この寄稿は、今回の非常戒厳宣言とその後数時間にわたる執行(12・3事態)が、なぜ「内乱罪」に該当するのかを法的に論証するものだ。 まず、条項をみてみよう。刑法第87条は「大韓民国の領土の全部または一部から国家権力を排除したり国憲を乱そうとしたりする目的で暴動を起こした者」を内乱罪で処罰するよう定めている。争点は12・3事態で何が「暴動」だったのかだ。 1.憲法と法律に真っ向から違反した大統領の非常戒厳宣言自体が「暴動」だ。今回の非常戒厳宣言が、憲法の定めた要件(「戦時、事変、またはこれに準ずる国家非常事態」)を充たしていないことは明白だ。権限を行使する要件がまったくそろっていないにもかかわらず、大統領は本人が持っている最も強大で暴力的かつ悪質な権限を乱用した。しかし、大統領の憲法上の権限行使は、たとえ違憲だとしても、「暴動」とまで言うことができるだろうか? 暴動と言える。韓国最高裁(大法院)は全斗煥(チョン・ドゥファン)元大統領らに対する内乱罪などの判決で、既存の非常戒厳を全国への非常戒厳に拡大した1980年5月17日の新軍部の措置を「暴動」と判断した。「非常戒厳の全国拡大のその事実自体だけでも、国民にとって基本権が制約されうる脅威」であり、「強圧的効果が法令や制度のために起きる当然の結果だとしても、このような法令や制度の持つ威嚇的な効果が、国憲紊乱(びんらん)の目的を持った者によって、その目的を達成するための手段」に利用される場合、暴動とみなした。朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領の殺害直後に宣言された非常戒厳を全国に「拡大」したことだけでも内乱罪が認められたのだから、政権の安全と危機のためだけに非常戒厳そのものを宣言したのであれば、内乱罪に該当することは明らかだ。 2.戒厳司令官の布告令が暴動だ。非常戒厳が正当に宣言されたとしても、戒厳下で制限される基本権は、言論、出版、集会、結社の自由に限定され、政府と裁判所の権限だけが制限される(憲法第77条第3項)。国会や政党の権限は戒厳によっても奪うことはできない。しかし、尹錫悦大統領の戒厳宣言直後に発表された布告令第1号第1項は「国会と地方議会、政党の活動を禁じる」というものだった。憲政史上いかなる戒厳布の布告文にも、国会活動を禁止するという内容はなかった。そして、この命令に従わない場合は令状なしで逮捕、拘禁するというものであり、「処断」するとした。国会、地方議会、政党という重大な国家権力を排除しようとする違憲的な布告令を宣言し、該当する組織の構成員を脅迫した行為は明らかに暴動だ。 憲法が、戒厳で制限される範囲に国会を入れなかったのには、重大な理由がある。基本権が停止して非常権力が出現する戒厳下で、憲法はこの強力な権力をけん制する手段として、国会を指定していたからだ。内乱勢力は憲法の限界を踏みにじり、国会を無力化しようとした。 3.戒厳軍の国会掌握が暴動だ。12・3事態で最も悪質だったのは、戒厳軍が文字通り国会を「攻撃」したことだ。上記の通り、国会は戒厳勢力をけん制できる唯一の権力であるため、戒厳権力もむやみに扱うことはできない。内乱勢力はその国会を最小限の名分なしに真っ先に封鎖し、国会本庁と議員会館に特戦司令部を浸透させた。この戒厳が憲政秩序を破壊するクーデターだったことを露骨に自白する行為だった。 朴槿恵(パク・クネ)元大統領の弾劾局面で機務司令部が不当に作成した戒厳文書も、これほどまで野蛮ではなかった。「政府と党の協議を通じて、職権上程と表決阻止の対策が必要」「国会議員を対象とする現行犯での司法処理で、議決定足数の未達を誘導」。国会を無力化しようとするクーデターの意図と計画が明白な内容だが、少なくとも、12・3事態のように国会を封鎖して国会内に軍を投入するというものではなかった。国憲を乱す暴動を全国民ははっきり目撃した。 捜査機関は、すみやかに大統領と内乱勢力に対する強制捜索と令状の請求を準備しなければならない。尹錫悦大統領に適用される規定だ。刑法第87条の内乱罪第1号「指導者は死刑、無期懲役、または無期禁錮に処する」 イム・ジェソン|弁護士・社会学者 (お問い合わせ [email protected] )