羊飼いの息子が大学へ 私たちの一族は、たった数世代でずいぶん出世した部類だといえる。父方の祖父は羊飼いだった。30匹ほどの犬を飼う、狩猟が大好きな人で、狼を殺したらその心臓を夕飯に食べた。狼の心臓を狼の血で胃へ流しこむ人だった。 1960年代、父が生まれた頃には、中国共産党によって内モンゴルの全土の村に学校ができていた(私はその成果を認めることにやぶさかではない)。かくして父は一族で初めて学校に通うことになる。父がどれほど一所懸命に勉強したか。それは想像に難くない。 母も勉強熱心だったが、勉強の動機は父とは異なっていた。母は文化大革命(1966〜1976年)のときに紅衛兵(毛沢東によって動員され、全国的な学生運動をおこなった人々)になれなかったのだ。家に木製の棚が一つあったせいで失格になったらしい。 紅衛兵になれなかったため、母は紅小兵(児童組織)、忠字舞(文革の際に踊られた集団舞踊)、批闘大会(党幹部など特定の人物を公衆の面前で批判・非難する集会)といった「愉快」な活動に参加できなかったという。だから、勉強する時間がたっぷりとれたのだ。 文化大革命が終わると、12年間停止になっていた「高考」という全国統一大学入学試験が、鄧小平の指示で再開されることになった。私の父母は、二人ともこの試験でいい点数をとり、フフホトの大学に入学した。専攻したのは、医学や工学といった実学ではなく、人文学だった。 人文学を選んだのは、1980年代の改革期(私に言わせれば、中国の社会主義史における最良の時代だ)では、まだ知識人が尊敬されていたからなのかもしれない。大卒者は全員、政府の仕事に就けた。文字の読み書きができない羊飼いの息子が大学に進学できたことが、この国の進歩の証だった。 大学でモンゴル学を学んだ父は、内モンゴル大学で教職に就いた。ジャーナリズムを学んだ母は「内蒙古日報」の記者になった。それから40年経った後も、両親の職場は変わっていない。国家社会主義について何を言おうとも自由だが、それが雇用の安定をもたらすことだけは間違いないだろう。 私が生まれてまもない1989年、父は逮捕された。父はこの時期について語りたがらない。それは私たちの文化に起因することなのだろう。私が知っているのは、父が天安門広場での運動に巻き込まれたということだ。 天安門広場での運動は、中国の辺境にも及ぶものだった。新疆や内モンゴルでも、デモ隊が街や広場を埋め尽くした。名目上は自治区となっている地域の住民が、実際に自治を求めたのである。私が聞いた話によると、父は公共の建物に民主化のスローガンを書きつけたらしい。彼は刑務所で2年を過ごした。 ある日の晩、私が保育園から帰ると、居間に坊主頭の見知らぬ男が二人いたことを覚えている。それが私の父と叔父だった。叔父も抗議運動に参加していたのだ。坊主頭だったのは、刑務所では頭髪を剃られるからだ。母は釈放を祝って、盛大なご馳走を用意した。少なくとも10品はあったと思う。 父が大学に再雇用されたことは記しておくべきだろう。しかし、教授ではなく、図書館員となった。刑務所に入ったら失職が当然だからだ。