小説家で、映画監督の榎本憲男。銀座テアトル西友(のちに銀座テアトルシネマ)や、テアトル新宿の支配人など、映画館勤務からキャリアをスタートさせた榎本が、ストーリーを軸に、旧作から新作まで映画について様々な角度から読者に問いかけていく「小説家・榎本憲男の炉前散語」。第11回は、現地時間1月22日に第98回アカデミー賞のノミネート作品が発表され、作品賞をはじめ12部門13ノミネートの快挙を達成した、PTAことポール・トーマス・アンダーソン監督の最新作『ワン・バトル・アフター・アナザー』(公開中)にフォーカス。観客や批評家たちを魅了する本作がいったい何を描こうとしているのか、監督や俳優論ではなく、ストーリーの観点から探求していきます。 ※本記事は、『ワン・バトル・アフター・アナザー』のネタバレ(ストーリーの核心に触れる記述)に該当する要素を含みます。未見の方はご注意ください。 ■批評を寄せ付けない映画作家、ポール・トーマス・アンダーソン 2025年、シネフィルのあいだで静かな熱狂をもって語られた作品があるとすれば、それはポール・トーマス・アンダーソンの最新作『ワン・バトル・アフター・アナザー』だったのではないでしょうか。映画が語られるとき、「ディカプリオ最新作」といった具合に俳優の名前が作品を代表する機会は年々増えています。そのなかで、ポール・トーマス・アンダーソンは、いまなお監督名そのものが作品の最大のラベルとして機能している、稀有な映画作家です。 僕自身も大好きな作家であり、作風や素材を変えながらも一貫してまちがうことなくPTA印の映画を撮り続けているのには感嘆を禁じ得ません。けれど、その一方で、この作家ほど批評を寄せ付けない監督も珍しいのではないか、という気もするのです。 皆がポール・トーマス・アンダーソンの作品を絶賛し、スゴイ、素晴らしいという声はたくさん聞こえるけれど、いったいどうスゴくて、素晴らしいのかを語るのはなかなか難しい。それがまさしく映画らしさにつながっているのかもしれないのだけれど。 ただし、ここで僕が書こうとするのは、ポール・トーマス・アンダーソン論ではありません。『ワン・バトル・アフター・アナザー』だけにスポットを当て、しかも、そのストーリーに着目し(その際にトマス・ピンチョンの「ヴァインランド」をどのようにトレースしているかなどということも無視します)、この作品を語り直したい。この映画が何について語っているのか、を愚直に探ってみたいのです。 ■“革命”からは逸脱したペルフィディアの行動 「フレンチ75」のメンバー、「ゲットー」ことパット・カルフーン(レオナルド・ディカプリオ)は冒頭で、恋人であるペルフィディア・ビバリーヒルズ(テヤナ・テイラー)とともに、移民収容施設を襲撃して、拘束されていた不法移民らを解放します。国家の法に照らし合わせれば犯罪行為ですね。なぜそんなことをするのか? 自由を求めているからでしょう。自由を愛し、自由を束縛するものを憎む。だから国境は憎しみの対象となる。人はどこにでも行ってどこで生きようが自由だ。そのためには暴力が必要なんだ。そういう考え方はありますね。 さらに、冒頭で重要なことが起きます。相棒のペルフィディアが、施設指揮官のスティーブン・J・ロックジョー(ショーン・ペン)を性的に辱めるのです。ここに僕は政治とセックスの拮抗という構図を見ます。政治というシステムは、その制度の中に人間を取り込もうとします。けれど、セックスはそういう制度からの逸脱を意味する。徹底的にアナーキーなものだからこそ、国家はセックスを管理しようとするのです。そもそも、彼女が施設指揮官を性的に陵辱するのは、移民解放の計画の埒外にあったものでしょう。つまり、彼女はしなくてもいいことをしたわけです。つまり、革命がよりよい統治システムを目指すものだとしたら、セックスは革命からも逸脱していることになります。さて、この、ロックジョーを性的に陵辱したことによって、物語は動き出します。 ■“追う者”と“追われる者” 徹底的に陵辱されたことで、ロックジョーはかえって彼女に執着することになります。パットとペルフィディアはフレンチ75を率いて政治家のオフィスや銀行や送電網を襲うのですが、調子がいいのは最初だけで、ペルフィディアはロックジョーにまんまと拘束され、見逃す代わりに性行為を受け入れさせられる(この行為によってロックジョーも体制側の秩序から逸脱しています)。一方、ペルフィディアは女児シャーリーンを出産するのですが、パットが家庭を築こうと説得しても、彼女は家庭という制度をうけつけません。しかし、そんな彼女も武装銀行強盗の際に警備員を射殺したことで逮捕され、ロックジョーと取り引きして実刑を免れるかわりに主要メンバーの居場所を教えてしまったので、仲間は次々と殺害されていくことになります。追いつめられたパットはボブ、娘のシャーリーンはウィラ・ファーガソンと変名し姿を消します。一方、ペルフィディアはメキシコへと亡命する。 ――そして16年後、ボブは、カリフォルニア州のとある街に隠遁し、偏狭な中年男になっています。元革命家の面影はどこにもありません。娘のウィラは自由奔放に育ち、そんな父親に反発しています。 一方のロックジョーは出世して大佐となって、白人至上主義者の金持ち連中で組織された秘密結社に招かれる。彼はこの組織のメンバーになりたくて仕方がないみたいです。けれど、この組織は、黒人と交わることを厳しく禁じています。かつてペルフィディアと性関係を持ってしまったロックジョーにとってこの事実は致命傷になりかねません。しかも、彼女との間には子供がいるかもしれない。ロックジョーはウィラを捕まえようと動き出します。そして、ロックジョーが放った部隊はボブの隠れ家を襲い、ボブは隠れ家から命からがら逃げ出すことに。ここでボブは所属組織に助けを求めるのですが、これがまったく当てにならない。そこで、ウィラの空手の師範で、移民たちを匿ってもいる親分肌の人物セルジオ・セント・カルロス(ベニチオ・デル・トロ)を頼って、という展開になっていきます。 ■陰謀論者の心理にも似たボブの言動 このへんで物語の説明に一区切りつけ、主人公の欲望に注目していきましょう。ボブが求めているのは自由だと僕は書きました。自由を得るために革命を目指しているわけです。けれど、革命後にどのような世界を構築するかというプランは彼の口から語られることはありません。かつて、労働者の自由と平等を実現するプランとして注目されていたのがマルクス主義でした。しかし、マルクス主義が現実に生み出した政治システムは自由を束縛するものだったのです。なので、このプランは駄目でしたという認識が現在では一般です(環境問題などを切り口に復権を唱える論者もいますが)。そして、ボブが革命を起こさないでも資本主義は加速して新自由主義となって、国境を曖昧にし、自由が世界に溢れるようになりました。では、隠遁生活をしているうちにボブが目指した世界は訪れたのでしょうか。そんなことはありません。 逃走の途中、ボブが電話口で、「リベラルのクソども」と悪態をついたり、フレンチ75のリーダーが無線で「億万長者どもが操るダボス会議」などと辛らつな言葉を発するシーンがあります。リベラルは自由主義者と訳されるのが一般ですし、ダボス会議(正式名は世界経済フォーラム年次総会)はグローバリゼーション、つまり、カネ・モノ・ヒトの国境を越えた自由な移動を前提にこれからの世界を経済人らが議論する国際会議です。これらにボブやボブの組織は悪罵を浴びせている。いまなお世界が間違っているのだと感じているからでしょう。そして、自分は明確なプランを語り得ないにせよ、少数の経済的エリートがこれからの世界を勝手に決めている(ダボス会議はボブの所属組織ではそう解釈されているのでしょう)と憤慨して殺意を抱くのは、陰謀論者の心理と非常に似ています。 ■身近な人間関係に自由の基盤を求めた革命家 さて、ここまで僕は意図的に、政治的な自由、経済的な自由、そして自分は自由だと感じられる感情的な自由を区別せずに一括りに“自由”と表現してきました。が、ここで、ボブが求めている自由がどんなものなのかを整理したいと思います。その際に参考にするのが、アイザイア・バーリンという政治思想家が提示した、“消極的自由”と“積極的自由”という概念です。以下、専門家には怒られるかもしれませんが、ものすごく簡単に書きます。消極的自由は「~からの自由」です。誰にも邪魔されずに自分のやりたいことをやれる自由です。それに対して、積極的自由は「~への自由」とでも言ったらいいでしょうか、なりたい自分に向かって前進していく自由です。グローバリゼーションで我々は消極的自由を手に入れたかのように思えます。また、消極的自由の推進がグローバリゼーションを生み出したのかもしれません。しかし、と同時に、それはグローバル企業や市場、資本、アルゴリズムといった非人格的な力が支配力を持つようになり、それらが人々の自由を奪っているような状況を生み出してはいないでしょうか。 この物語では、合言葉を言えるか言えないかが重要となるシーンがあります。合言葉を言えるものが仲間、言えないものはそうではない。つまり、仲間か仲間でないかは手続きで決まるわけです。これは共同体が大きくなると仕方がないことかもしれません。ロビン・ダンバーという人類学者によると、人間が仲間だと思える数は脳の構造上決まっており、その数は大体150人なのだそうです。そのような手続きを越えて、もういちど心で人と人とが結びつくには、自分の身近な人間との関係から再構築していくしかないのかもしれませんね。 かつての革命家が、もう一度、身近な人間関係のなかに自由の基盤を探そうとする。その意味で、この物語はきわめて保守的です。けれど、その保守性は、体制への迎合ではありません。世界を変えようとして失敗した者が、それでもなお他者と結びつこうとする、その不器用な試みです。夢破れたあとでまだなお生きるしかない革命家が、それでも自由を欲して、再出発する。そのような物語として、僕は『ワン・バトル・アフター・アナザー』を見ました。 文/榎本 憲男