※本記事は、雑誌『ダ・ヴィンチ』2026年5月号からの転載です。 どんな違和感も見逃さず、事件の真相をたぐりよせ、罪をまっとうに裁いてきた検事・佐方貞人。だが、ある事件を機に、刑事事件を専門に扱う弁護士へと転身する。柚月裕子さんの佐方シリーズは、そんな“ヤメ検”を主人公に据えたリーガル・ミステリーだ。第1作『最後の証人』は弁護士時代を描いた長編、続く3作は時をさかのぼり、検事時代の活躍をつづった短編集となっている。 「検事時代の佐方は、自分の中に確固とした正義があり、信念をもって我が道を進んでいました。ですが、挫折を経験し、何を信じればいいのかわからなくなってしまうんです。もちろん弁護士になっても懸命に事件に向き合いますが、物事を斜から見るようにもなりました」 このたび7年ぶりに刊行された第5作『誓いの証言』は、シリーズ第1作以来の弁護士編。実に16年ぶりの長編でもある。 「法廷ものの見どころは、やっぱり裁判ですよね。原告と被告、双方の主張がぶつかり合い、人間ドラマを生むのがリーガル・ミステリーの醍醐味です。こうした公判の模様を描くには、短編ではページ数が足りません。そこで、今回は長編に挑むことにしました。法廷ものは有罪か無罪かを争い、結末がふたつにひとつになりがちですが、今回はそうではない展開に挑戦しています」 さらに今回は、書き方においても初めての試みを取り入れた。これまではテーマありきで舞台を選んできたが、今回は土地が先に決まった。各地を取材する中で法律監修を担当する酒井邦彦弁護士の縁で高松を訪れたところ、日本三大花崗岩のひとつに数えられる銘石「庵治石」(作中では蕃永石として登場)が柚月さんの目に留まったのだ。 「これが本当に美しい石で。手探りで始めた取材でしたが、庵治石を見た時、『あ、書ける』と思いました。山には“丁場”と呼ばれる石切場があるのですが、中には江戸時代から何代にもわたって採掘権を守り続けている家もあるそうです。私が生まれ育った東北地方は、家を守るよりもまず自分が生き残るのが精一杯という時代が長くて。ですが、西側の地方では古くから続く家や伝統を大事にする文化が根付いているのでしょうね。受け継いできたものを次世代にどう手渡すか、そこには土地の人たちの考えの相違もあったはず。継承の難しさも含めて、家の重みを書いてみようと思いました」 柚月さんは岩手県を舞台にした『風に立つ』でも、南部鉄器の職人について書いている。どちらの作品からも、職人や手仕事への敬意が伝わってくる。 「確かに、それはあるかもしれませんね。例えば庵治石にしても、最高級の石はごくわずか。石切場のどこに上質な石があり、どこに杭を打てばきれいに割れるのか、今でも機械ではなく職人さんの勘に頼っているそうです。美しい石を掘り出す職人の執念やプライド、こうした伝統が受け継がれていくさまに胸を打たれます」 ■事実を追うだけでは真実はわからない はじまりは、佐方の大学時代の友人である弁護士の久保利典が、不同意性交等罪の容疑で逮捕されたことだった。被害を訴えたのは、クラブで働くユウカ。久保によると、彼女と一夜をともにしたのは事実だが、あくまで合意のうえだという。だが、ユウカは久保に薬を飲まされたと主張し、警察や新聞社に被害を訴える。さらに、SNSで久保の実名を出して告発し、彼から家庭も社会的信用も奪い尽くそうとする。久保は「ユウカは、俺を破滅させようとしている」と嘆くが、なぜそこまで恨みを買ったのかわからない。そこで佐方は、ふたりをつなぐ糸を求めて調査を開始することに。物語は、佐方視点の東京編と香川県蕃永町の石職人・大橋猛視点の香川編が交互に進み、無関係に見えたふたりの接点が徐々に明かされていく。この構成は、『最後の証人』を踏襲したものだ。 「事件が起きるきっかけは、直近の出来事にあるとは限りません。その人物の生い立ち、さらに言えば親や祖父母の代からの因縁が関わっていることもあります。関係性を深く掘り下げ、ページを割いて動機を提示しなければ、ユウカの行動に説得力を持たせることはできない。そのため、東京と香川を交互に行き来しながら過去を丁寧にひもとく構成にしました。これまで書いてきた小説も含め、読者が望むラストになっているかどうかは私にはわかりません。ですが、『こんなことがあれば、復讐したくなる気持ちもわかる』と納得してページを閉じていただけるよう、心を砕いたつもりです」 ふたりの過去をたどるうちに、佐方はある石職人の死亡事故にたどりつく。「事実と真実は違います」と佐方が語るとおり、事実を超えた真実──動機が明かされる過程が、読みどころとなっている。 「今回の事件で言えば、久保とユウカがホテルに入っていく防犯カメラの映像などの物的証拠が“事実”にあたります。でも、それだけでは“真実”はわかりません。ユウカは、なぜ我が身を犠牲にしてまで久保を陥れようとしたのか。もしかしたら、彼女自身にも自分の本心はわからないのかもしれない。人はそういう曖昧なものだということも、書きたかったことのひとつでした。その一方で、久保には久保の事情があるという点も描いておきたかった。フェアな物語にするために、彼の背景にも筆を割きました」 久保とユウカだけでなく、本作の登場人物はみな事情を抱えており、そのボタンのかけ違いが悲劇を生むことに。人生のままならなさ、切なさが、本作では特に色濃く感じられる。 「きっとね、根っからの悪人ってそうそういないと思うんです。人はどうにもならない事情を抱えているし、良かれと思ってしたことが摩擦を生むこともある。私も年齢を重ねていろいろな経験をしてきた分、そういった思いが強くなり、今回のような書き方になったのでしょうね。もし16年前だったら、また違った書きぶりになっていたかもしれません」 すべての真実が明かされるクライマックスの裁判シーンでは、佐方がある奇策を講じるひと幕も。 「酒井弁護士にご指摘いただき、私にとっても思いがけないシーンが生まれました。私が読んできた法廷ミステリーでは見たことのない展開なので、読者の方にも楽しんでいただけるのではないかと思います」 ■今の価値観を埋め込んだ一行 本書の刊行に際し、柚月さんは「16年ぶりの弁護士シリーズですが彼は少しもブレませんでした」とコメントしている。この言葉には、ふたつの意味を込めたという。 「ひとつは、『事実よりも真実を見る』という佐方の考え方にブレがない。そしてもうひとつは、私と佐方の価値観にブレがないということです。16年前、私は自分の価値観にしたがって『最後の証人』を書きました。そして今回の『誓いの証言』には、今の私の価値観が投影されています。小説を執筆していると、『これを書きたかった』という一行が必ず出てくるんですね。そこには、時を過ごす中で築いてきた今の私の価値観が埋め込まれています。どの一文かは想像に委ねますが、読者の皆さんそれぞれが胸に残る一行を見つけてくださるとうれしいです」 佐方シリーズは、柚月作品の中でももっとも長く続いている。当然、続刊も期待せずにいられない。 「佐方が検事を辞めた時のことは、いずれ長編で書きたいですね。編集者からのご依頼をいただけたら、いつか書いてみたいと思います」 取材・文:野本由起 写真:冨永智子 ゆづき・ゆうこ●1968年、岩手県生まれ。2008年、『臨床真理』で第7回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞しデビュー。13年『検事の本懐』で第15回大藪春彦賞、16年『孤狼の血』で第69回日本推理作家協会賞(長編及び連作短編集部門)を受賞。近著に『教誨』『風に立つ』『逃亡者は北へ向かう』など。 『誓いの証言』 (柚月裕子/KADOKAWA) 2090円(税込) 弁護士・佐方貞人の旧友である久保利典が、行きつけのクラブの女性から不同意性交等罪で訴えられた。無実を主張する久保を信じ、佐方は事件の経緯を調べるが、女性が久保を嵌める動機が見当たらない。ふたりの接点を探るうち、やがて約20年前に香川で起きたある石職人の死亡事故が浮かび上がる。訴えの裏に秘められた真実に迫る、心震わすリーガル・ミステリー。