作家・佐藤優氏がいわゆる「鈴木宗男事件」で逮捕されたのは2002年のこと。当時、佐藤氏は外務官僚だった。 この時、担当検事として佐藤氏を取り調べたのが西村尚芳氏(現在は弁護士)である。 片や被疑者、片や取調官という立場で対峙した二人だが、取調室で言葉による真剣勝負をしていくうちに、奇妙な信頼関係が生じていく。佐藤氏の著書『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』の中では、2004年、佐藤氏が公判を終えたあとに西村氏に声をかけて始まった会話が描写されている。まず声をかけたのは佐藤氏だ。 「もうお会いすることはないと思いますが、ほんとうにお世話になりました」 「こちらこそお会いできてよかったです」 「西村さん、あなたは検察庁の良心なんだからちゃんと出世してくださいよ。御活躍を期待しています」 佐藤氏は同書で「西村尚芳検事は、誠実で優れた、実に尊敬に値する敵であった」とも述べている。一貫してフェアな姿勢で取り調べを行った西村氏に送った賛辞である。 とはいえ、立場が正反対の両者はこれ以降、接点はなかった。が、4年前、ひょんなことから会食をすることとなる。すでに西村氏は退官していた。 そして最近、二人は対談本『特捜取調室 『国家の罠』20年目の再対決』を出すに至る。かつての被疑者と取り調べ担当の検察官が検察や特捜部の在り方について徹底的に議論したという前代未聞の一冊である。対談のテーマの一つが、近年頻発している検察の不祥事だ。冤罪、違法な取り調べ、証拠の捏造、強引すぎる起訴から部下への性的暴行まで、検察の問題点が多く報じられている。 被疑者から「尊敬に値する」とまで言われた西村氏にとっては、こうした不祥事は看過できるものではないのだろう。同書では、問題を起こした検察官はもちろん、検察という組織の抱える問題についても遠慮なく批判している。その厳しい視点は「あとがき」にも盛り込まれている。それ自体が一篇のエッセイのような趣を持つ西村氏の「あとがき」を『特捜取調室』から抜粋してご紹介しよう。 *** 悪い上司の話をしたい。 悪い上司には二つのタイプがある。一つは無能な悪い上司。部下の言うことに耳を貸さず、おかしな指示ばかり出して現場を混乱させる。でも、こういう上司は対処がしやすい。現場は一体になって無能な上司に対抗することができるし、現場のモチベーションが下がれば部署の成果も上がらず、上層部も更迭に動きやすい。 たちが悪いのは有能な悪い上司だ。このタイプは現場で働いている時は非常に有能で、実績を残していることが多い。だから、上層部からの信頼も厚い。また、部下に対してもやみくもに厳しい注文を付けることはない。上層部の受けの良い部下や自分が有能だと認めた部下に対しては、話のわかる仕事がやりやすい上司を演ずる。当然、部下からの評判もよい。他方、そうでない部下に対しては、必要以上に厳しく対応することがある。特定の部下に厳しく対応することにより、他の部下に緊張感を与え、彼らが必死になって仕事に励むように仕向けるのだ。結果として、部署の成績は向上し、その上司に対する上層部の評価はさらに上がる。その上司は更迭されるどころか栄進する。しかし、ターゲットとされた部下は、たまったものではない。現場で誰にも助けを求めることができず一人で悩みを抱え込んでしまうと、退職を余儀なくされたり、最悪の場合は、うつ病になったり自殺に追い込まれたりする。 2019年12月に自殺した広島地検の若手検事は、この有能な悪い上司のターゲットにされた可能性が高い。この上司が、部下のことを思って厳しく指導していた上司なのか、有能な悪い上司なのかを判別するのは、難しいようで実は簡単だ。有能な悪い上司は、ターゲットとした部下を人として尊重していない。だから、平気で人格を否定する。問題の上司は、自殺した若手検事に対し、「修習生以下だ」と言い放ったという。これは、部下の能力を否定したもので、明らかに人格否定の言動だ。おそらく、調査すればもっと激しい人格否定の言動をとっていたことが分かるだろう。 国は、26年2月になってようやく、この上司の部下検事に対する言動が不適切だったことを認めて遺族に謝罪し、再発防止策を示した通知を各地検幹部に発出するという。あまりに遅い。しかし、何もしないよりはましだろう。今回の対談で、私は、検察にとって人を人として尊重する文化が重要であるということ、それから上司のあり方を教育することで、人を人として尊重するよい上司が増えていけば、検察の組織力も強化されるということを指摘した。今回の謝罪と取組が、そのための第一歩となることを期待したい。 西村尚芳(にしむら・ひさよし) 1960年、石川県生まれ。86年、金沢大学法文学部卒業後、大蔵省北陸財務局に勤務。90年検事任官。宮崎地検、福岡地検、名古屋地検などを経て、財政経済に強みを発揮し、特捜検事としてのキャリアを歩む。東京地検特捜部時代の2002年には佐藤優氏の取り調べを担当。12年東京地検特捜部副部長、13年横浜地検刑事部長、14年大阪地検特捜部長、15年東京高検検事兼最高検特別捜査係検事、16年東京地検特別公判部長、17年同刑事部長、18年青森地検検事正、19年高松地検検事正を歴任し、20年退官。その後、霞ヶ関公証役場で公証人を務め、25年7月より弁護士。 佐藤優(さとう・まさる) 1960年、東京都生まれ。85年、同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在英大使館、在露大使館などを経て、95年から外務本省国際情報局分析第一課で主任分析官として対ロシア外交の最前線で活躍。2002年、背任と偽計業務妨害容疑で逮捕・起訴され、09年6月に執行猶予付き有罪が確定。13 年6月、執行猶予期間を満了し、刑の言い渡しが効力を失った。05年、『国家の罠─外務省のラスプーチンと呼ばれて』で毎日出版文化賞特別賞を受賞。主著に『自壊する帝国』(新潮ドキュメント賞、大宅壮一ノンフィクション賞受賞)、『獄中記』などがあるほか、共著も多数。20年、菊池寛賞受賞。 協力:新潮社 Book Bang編集部 Book Bang編集部 新潮社