山形県上山市の花烏賊(はないか)康繁さん(78)の父・竹男さんは、旧日本軍の憲兵だった。戦争中に中国で行った行為を、晩年の手記に残していた。戦後81年の夏、胸に去来する思いを、康繁さんが語った。 父親は生前、自分の戦争体験を話すことはありませんでした。ただ、軍隊内の警察である憲兵の試験に合格した自慢話は聞かされました。 父は晩年、自身の生い立ちから近況までを振り返った手記を文字に起こしていました。死後、遺品整理をしている時に紙の束を見つけました。 父・竹男は1920年、今の村山市の小作農の家に生まれました。朝早く起きて草刈りをするなど熱心に家の手伝いをする子どもだったそうです。貧しい家を助けるため、ウサギを飼育して売ってもいたようです。 小学校卒業後は着物の行商に従事し、勤勉さを認められ、41年から銀行に勤めました。その年の12月、日本がアメリカに宣戦布告しました。翌年に召集令状が届き、北支派遣軍の兵士として中国北部に出征しました。 過酷な初年兵教練を経て1等兵に進級した後、憲兵の試験を受け、合格したそうです。憲兵の主な任務は、治安維持のための軍隊の規律維持でした。中国人に対する略奪や性的暴行をする日本兵を取り締まったと、手記にはあります。 任務はそれだけではありませんでした。日本と戦っていた中国共産党「八路軍」の民兵指導者の逮捕や取り調べも行っていました。 手記にはほんの数行ですが、こう記してありました。 「八路軍の民兵は、どんなに厳しい取調(とりしら)べをしても知らぬ存ぜぬの一点張りで、絶対に白状することがなかった。一週間も取調べても何も出てこなかったが、帰してやるわけにも行かず、殺害するということが何回もあった。多いときには、一度に十二、三人も殺害に及んだのであった」 私は同郷の土屋芳雄さん(故人)と親交をもち、2000年からは戦争体験の聞き書きをしていました。土屋さんは31年に旧満州(中国東北部)に配属され、34年から45年まで憲兵として任務に当たった人です。 土屋さんは「怪しい」と思った中国人を片っ端から逮捕し、残虐な拷問にかけ、証拠がないまま「抗日分子」に仕立てあげては、銃殺刑にしたそうです。1917人を投獄し、328人を殺害したと、嗚咽(おえつ)まじりに語ってくれました。 同じ憲兵だった父も、中国で同じようなことをしたのではと想像せざるを得ませんでした。 終戦から3年後に、私は生まれました。物心がついた私にとって、父親の印象は「鬼」でした。 戦後再開した衣料品の商売では愛想よく客に接し、集落の仲間との酒宴でも朗らかに過ごしていました。 しかし、家族だけになった夜、酒を飲んでは豹変(ひょうへん)しました。母に向かって悪態をつき、暴力をふるっていました。母は抵抗することなく、おさまるのをじっと我慢していました。殴られて腫れ上がった母の顔を、今も覚えています。 私は暴力そのものより、夜に別人格のように変わる父親に恐怖を感じていました。家族が寝静まった寝床では、毎晩のように突然、「ワァー」とも「ウゥー」ともつかぬ奇声を発し、聞きとれない言葉を発して誰かと話をしているようでした。 暴れる父を見かねて隣家から駆けつけた祖母は悲しげに「竹男は戦争で人が変わってしまったんだ」と言いました。 私が中学2年生の時です。 一升瓶の酒を1人で飲み干した父は「なんで酒を買っておかないんだ!」と暴れ、母を突き飛ばし、壁に押しつけました。我慢の限界でした。 私は台所の包丁を手に取り、母の前に立つと、父に刃先を突きつけました。無言で対峙(たいじ)し続けると、やがて父の顔に正気が戻ってきました。 その顔を見て私は、自分のしたことが怖くなり、外へ逃げ出しました。 その一件があってから、父は酒を飲むのをやめ、母への暴力はやみました。 その一方、商売仲間の借金を背負わされ、私たち一家は返済のため働きづめの生活を送ることを余儀なくされました。 借金を完済し、老境に入ってようやく穏やかな生活を手に入れた父は98年、78歳で死去しました。 手記にはこんなくだりもありました。 「戦争は、人間をきちがいにする。実際に手をくだしながら、私も何の抵抗も感じなくなっていたが、今になって、なんと残虐なことをしたものだと悔やまれてならない。ただひたすら悔い、わび、冥福を祈るのみである」 これを読んだ私は、父は、中国での行為に対する良心の呵責(かしゃく)でずっと苦しんでいたのではないかと思いました。父は中国の人たちにとってはひどい加害者でしたが、同時に、国家権力によっていや応なく戦争に巻き込まれ、人生を狂わせられた被害者だったのかもしれない、と。 今年、父が亡くなったのと同じ年齢になりました。 私は戦争を経験していませんが、父のようなむごい人生を送る人が生まれないよう、命の続く限り「戦争の狂気」を訴えていくつもりです。(構成・斎藤徹)