衝撃だった「車での無差別襲撃」…ドイツに住む「移民」として考えたこと

2024年12月20日の夕刻、ドイツ東部の街マグデブルクで、無差別襲撃を目的とする車両がクリスマス・マーケットに突入し、5名が死亡しただけでなく220名を超える負傷者が出るという大きな事件が起こった。 犯人はその場で逮捕されたものの、捜査は年をまたいだ今も続いており、事件の全容が明らかになるまでまだまだ時間がかかりそうだ。現時点での報道からは、拘束されたのがサウジアラビア出身の精神科専門医で、ドイツの永住権を2006年に取得していた人物であること、また、犯人が何らかの事件を起こす可能性について当局が通報を受けていたにもかかわらず対応できなかったことなどがわかっている。 事件については日本のテレビ・新聞でも報じられた。ドイツ西南部に暮らすわたしも、もちろんすぐにそのニュースを知ることになったが、第一報を読んで、なんとも形容しがたい胸騒ぎを感じた。 というのも、その数日前、まさに「車両を使った無差別襲撃がキリスト教の祭日に起こる」ことをテーマにした、チェコの映画作品『火があがりさえすれば(Kdyby radši hořelo, 本邦未公開)』を観る機会があったからだ。 *以下、映画の結末を含む物語の展開に触れる箇所があるためご注意ください。 この『火があがりさえすれば』という映画は、2022年に第72回ベルリン国際映画祭で上映された、アダム・コロマン・リバンスキー監督のデビュー作品である。春の復活祭を祝うチェコの片田舎の広場に、白いバンが突っ込み、村に暮らすゲーザという男に衝突。車はその後、炎上する。自警消防団員ブローニャが消火活動にあたり、ゲーザは一命を取り留めるものの、すでに運転席はもぬけの殻。妻を亡くし落ち込みながらも「コミュニティを護る」ことに生き甲斐を見出していたブローニャは、もともと外国人がチェコにいることをよく思っておらず、命を救うことになったゲーザさえ「ハンガリー系」という理由から煙たがっていたような人間だ。「ついに俺たちの村にもアラブのテロリストがやってきた」と憤慨するブローニャ。ネオナチ思想にかぶれた若者たちを引き連れて、例年よりもひっそりとイースターを祝うひとびとの家を、警護と称して調べ上げていく。 火があがりさえすれば、あとは早い。村のひとびとは姿の見えない犯人の影に怯える。 復活祭のミサで、神父が「罪を犯してしまった者にも祈りを捧げましょう」と言えば、侵入者の「移民」の暴力を許すのか、とばかりに参列者は退席していく。こんな小さな村を襲うなんて馬鹿げている、きっと事故だろう、そう考える村人と、恐怖に支配された人間とのあいだにも、対立の火種がくすぶる。主人公のスタンダは、妊娠中の妻ヤナの身を案じるあまり冷静さを失い移民ヘイトを煽るサイトを閲覧し、ヤナに病院には来ないでほしいと言われる。 結局、ブローニャたちが想像するような「アラブの移民テロリスト」など存在せず、村の事件は思わぬかたちで解決をみるのだが、そこに至る過程で過激になっていく村の面々の行動が時にシリアスに、時にコミカルに描かれる。 その時点ではわたしも、ミサから立ち去る村びとの様子などは大袈裟にも見え、滑稽に戯画化された表現だと受けとめていたが、マグデブルクの事件のあとに作品のことを考え直すと、また違って見える。疑心暗鬼に陥った人間は、「こうであるはずに違いない」という思い込みだけで犯人探しをする人間は、いかにたやすく排外的な感情を抱え、実際にはあがりさえしていない煙の向こうに火を見出し始めるのだ。 チェコでは、中東やアフリカからの「難民」がテロを起こしたという事例は実際にはない。 むしろ、シーンの一部は、極右思想に傾倒したチェコ人男性が、過激派テロリストを装って鉄道線路に妨害を加え、偽りの自白の書簡を送りつけたという2019年の事件に着想を得たものだ*。 しかしながら、ヨーロッパに暮らすひとびとのなかに、「宗教過激派による車をつかった無差別襲撃」というイメージは、いくつかの前例とともに、「テロリズム」のひとつの形として記憶に刻み込まれていた。2016年の夏、フランス国民祭(建国記念)の日に、南仏ニースの広場で祝日を祝うひとびとにトラックが突っ込み、80人以上の死者が出るというテロ攻撃が起こった。同年の12月にもベルリンのクリスマス・マーケットに車両が突入し、13人の死者と70人以上の負傷者が出た。車は使用されていないが、2018年にはフランス・ストラスブールのクリスマスマーケットがやはり銃撃テロの現場となった。このことから、「キリスト教の祝祭日」が標的にされているという印象も深まった。 この映画の舞台となったチェコを含む中東欧地域(一般に旧東欧とも)では、アフリカ、中東、アジアからの移住者・難民が、西欧に比べればまだまだ数として存在感をもつには至っていない。そのようななか、陰謀論まがいの「煙」がひとびとの目を曇らせ、必ずしも事実関係を検証せぬまま、過剰なヘイト言動を生み出しているのが現状だ。 特に近年、こうした「移民」や「難民」、または「外国人」をめぐる負の感情は、フィクション・ノンフィクションのジャンルを問わず、中東欧映画でも繰り返し語られる主題となっている。以下では、日本でも公開となったルーマニア、ハンガリー、そしてポーランドの作品を紹介したい。

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