これがなければ気が狂っていたかもしれない…24時間監視の東京拘置所で角川歴彦氏に届いた「強力な差し入れ」

東京五輪・パラリンピックをめぐる汚職事件で東京地検特捜部に贈賄罪で起訴されたKADOKAWA元会長の角川歴彦氏は、東京拘置所で約7カ月間勾留された後に保釈された。「8501」と番号で呼ばれる24時間監視体制の拘置所生活はどのようなものだったのか。新著『人間の証明 勾留226日と私の生存権について』(リトルモア)より、一部を紹介する――。 ■「八五〇一」拘置所で番号に変えられた私の名前 朝は七時に起床する。朝夕の点呼の際は正座して看守を待ち、自分の番には称呼番号を言わなければならない。名前を呼ぶことは相手の人格を認める最初の行為である。それゆえ人間を番号で呼ぶところに私はひとつの作為を感じた。そして、その作為に殉じないことが自分を失わないための支えになった。 私は「八五〇一」の称呼番号の後に、必ずはっきりと「角川歴彦」と名乗った。「人格の否定」に対する私なりのささやかな抵抗だった。「八五〇一」を「はち・ごう・ぜろ・いち」と言うと看守は腹いせで「八千五百一番と言え」と命じた。「そういう規則があるんですか」と聞くと答えられない。単なる彼の意趣返しだった。 「点呼」と言われた時に正座を始め、看守が部屋に来る時まで正座していなければならない。「点呼終わり」と言われて初めて脚を崩せる。太めの私には正座がどうにもつらい。脚を崩して叱声を浴びたこともあった。だが日を追うとともに痩せてくる。すると正座ができるようになる。拘置所生活におけるひとつの順応だった。 ■天井には監視カメラ、就寝・昼寝以外は寝転がるのは禁止 部屋では就寝や昼寝などを除いて布団に寝転がることが許されない。コンクリートの壁を背に差し入れられた座布団の上にずっと座っていなければならない。天井には監視カメラがあり、カメラの視界から外れると、廊下側にある小窓からのぞく看守からすぐさま注意される。昼夜にかかわらず、二十四時間体制のチェックである。 面会は平日に限られ、弁護士のほかは裁判所に認められた妻も弁護士の申請によってようやく二十分の面会が許された。面会でアクリル板越しに妻と話す内容は、同席した看守がすべてメモを取っていた。手紙や郵便物を出したり受け取ったりすることも禁じられた。 規則に基づく指示や看守の恣意的な命令は、実に瑣末で取るに足らないものだ。しかし、そうした命令の一つ一つが私の尊厳を踏みしだいていく。規則のそれぞれが私の人としての権利を侵食していく。 現実社会と隔絶された空間で、ただひたすら同じような日々が繰り返され、時折、「ここで死んでしまうのではないか」と気も狂わんばかりの焦燥感にかられる――そんなふうに精神が蝕まれていく心理状態を専門的には「拘禁性ノイローゼ」と呼ぶことを後で知ったが、私はそれを「小菅病」と名付けた。 入所以来、まだ二カ月と経っていないころ、私は既に「小菅病」に冒されていた。

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