昭和の終わりである、1988年から平成元年となった翌1989年にかけて4〜7歳の幼女4人が行方不明となり、その後死体で発見された『東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件』。またの名を『宮崎勤事件』。被害者の遺族に遺骨を送りつけたり、「今田勇子」を名乗り、新聞社に犯行声明を送るなど、犯人の異常な行動が注目を集めた。当時『FRIDAY』の記者として取材に当たった小林俊之氏(74)が、日本中を恐怖に陥れたこの事件について振り返る──。1988年8月22日、最初に行方不明になったのは埼玉県入間市に住むAちゃん(当時4歳)。その2ヵ月後の10月3日には同県飯能市に住むBちゃん(当時7歳)の姿が消えた。手がかりは何もなく、2人の行方はまったくわからなかった。さらに12月9日には、同県川越市のCちゃん(当時4歳)が、友達の家に遊びに行った帰り道に自宅近くで友達と別れたのを最後に行方がわからなくなった。その5日後に〈C かぜ せき のど 楽 死〉と書かれた謎解きのようなハガキが、Cちゃんの自宅に届く。その翌日、全裸にされたCちゃんの遺体が入間郡名栗村(現・飯能市)の山林で発見されたのだった。Cちゃんが遺体で発見されたことで、にわかに他の2人の幼女失踪事件にも注目が集まり、世間では3つの事件の関連を疑う声があがった。当時の様子を小林氏は語る。「私は(3つの事件の関連性は)半々だと思っていました。この時点ではAちゃん、Bちゃんはまだ行方不明になっているだけだったから。警察はCちゃんのご遺体が見つかったことで、Aちゃん、Bちゃんの件も、当然洗い直したと思います。同一犯の犯行じゃないかとも疑っていたでしょう。ただ、そういう発表は一切していなかったと思います。今でも強烈に覚えているのは、Cちゃんが行方不明になって遺体が見つかったあと、公園からパッタリと子供がいなくなったこと。それはもう、異様な光景でしたよ。親が出さなかったと思うし、子供たちも何かあったと感じていたんでしょうね」