あの日、格闘技が紅白に勝った…。4分間の歴史的瞬間を423ページにわたって綴るノンフィクション【書評】

小学館ノンフィクション大賞受賞作『力道山未亡人』(細田昌志/小学館)に感銘を受け、細田氏の最新刊『格闘技が紅白に勝った日 2003年大晦日興行戦争の記録』(講談社)を手に取った。表紙には、屈強な黒人男性が大柄な男をノックアウトした直後らしき写真が使われている。だが、わたしはこの黒人男性がだれなのか、見当もつかなかった。それくらい、格闘技にはめっぽう疎い。 本書を読み進めるうちにわかったことだが、この黒人男性はボブ・サップである。ノックアウトされているのは、元横綱の曙だ。2003年12月31日、TBSで放送された『K-1プレミアム2003 人類史上最強王決定戦 Dynamite!!』のメインイベントで、ボブ・サップが曙を1R2分58秒でKO。曙が倒されたまさにその瞬間、視聴率は驚異の43%を記録した。日本のテレビ史上初めて、紅白歌合戦が視聴率で裏番組に抜かれた歴史的瞬間だった。本書はその舞台裏を描いたノンフィクションである。 2003年の大晦日、フジテレビがPRIDE、日本テレビが猪木祭、TBSがK-1をほぼ同時間帯に放送するという前代未聞の“格闘技興行戦争”が繰り広げられた。「3局をザッピングして忙しかった」という人も多いようだが、格闘技にまるで興味がなかったわたしは、例年通りまったりと紅白を観ていた。 本書のタイトルを聞いたとき、正直、買うのを躊躇った。格闘技が紅白に勝ったことに対して、なんの感慨もなかったからだ。しかし、序章「フジテレビショック」から心を鷲掴みにされ、貪るように読んだ。自分でも驚くほど、ページをめくる手が止まらなかった。 ■たった4分間の出来事を、423ページにわたって描くという凄み 2003年12月31日、23時00~03分の4分間、TBSが放送したK-1が紅白を視聴率で抜いた。本書のタイトルにある「格闘技が紅白に勝った」というのは、この4分間を指している。わずか4分間の出来事を、423ページにわたって描き切る凄みに圧倒された。 もちろん、単に4分間の出来事を引き延ばして描写しているわけではない。その瞬間がなぜ起こったのか、つまりなぜK-1が紅白を抜いたのか、その背景を徹底的に掘り下げているのである。 歴史は昭和まで遡る。70~80年代、『輝く! 日本レコード大賞』(TBS)の平均視聴率は36%、『NHK紅白歌合戦』は70.2%だった。しかし2000年代になると人気に陰りが出てきて、紅白の視聴率は50%を割り、レコ大に至っては15%以下に低迷。 TBSは視聴率回復のため、「レコ大の後番組に強力なコンテンツを用意する」という戦略を打ち出し、その切り札として格闘技を選んだ。 96年にフジテレビのゴールデンタイムに進出した「K-1グランプリ」は、97年に三大都市のドームツアーを成功させ、98年には日本テレビでも放送を開始し、熱狂的な人気を博していた。そこにTBSが目をつけ、格闘技とテレビ局の関係が複雑に絡み合いながら、「猪木祭」の誕生、「PRIDE」の台頭、芸能事務所や裏社会の思惑が交錯していく。人々は格闘技に翻弄され、錯綜し、やがて2003年の興行戦争へと雪崩れ込んでいく。 とにかく人間模様がすごい。K-1にマルサが入り、K-1創立者で総合プロデューサーだった石井館長が逮捕され、新たにプロデューサーに就任した谷川貞治は選手獲得に奔走する。「マイク・タイソンを出せ」「スティービー・ワンダーに国歌を歌わせよう」「貴乃花対ヒクソン・グレイシーはどうだ?」――。二転三転どころじゃない。五転も六転もして、最終的に曙にオファーするために谷川が福岡に飛び、“夜討ち朝駆け”するシーンは実にドラマチックだ。 記録に残るのはたったの4分間だが、その裏にはノンフィクションにして423ページ分の重厚な物語があるのである。 ■緊迫感と笑いが共存する、人間ドラマとしての格闘技興行 逮捕や監禁などのスリリングな展開も目が離せないが、一方でコントとしか思えない滑稽な事件が次々と勃発するのも本書の魅力のひとつだ。 2002年大晦日、『INOKI BOM-BA-YE 2002』では、アントニオ猪木がリング上で「ぶっ飛ばしたいやつがいる。野村沙知代、出てこい」と呼び出し、サッチーに張り手を見舞うという奇想天外な出来事が起こった。 問題はここからだ。本書の描写を以下に引用する。 引用—- 「すると、あろうことか、彼女は猪木を軽く張り返した。しかし、次の瞬間、猪木は倍以上の強さで野村沙知代を張り倒した。足元はよろけ、イヤリングが吹っ飛んだ。(中略)このパフォーマンスに何の意味があったかわからない」 —- 思わず吹き出してしまった。大真面目に書かれているのだが、その真面目な文体が余計に笑いを誘う。 2003年大晦日の猪木祭では、「ゴングがない」という前代未聞の事態が発生。試合開始まで4時間を切る中、あちこちに連絡を入れるも、いかんせん大晦日。ゴングが見つからないまま、開始時刻は刻一刻と迫りくる。 午後3時半すぎ、総合格闘家の三島☆ド根性ノ助の携帯電話が鳴った。ゴングを貸してほしいという。三島の道場にゴングがあり、三島は午後4時すぎに道場を車で出発。猪木祭の開始時刻は午後5時だ。会場の神戸ウイングスタジアムに到着すると、関係者たちが三島の到着を待ち構えていた。 引用—- 「三島からゴングを受け取った関係者は、まるでラグビーボールを抱えるように、場内に走り去っていった。その姿を見届けると、三島は100mほど離れた駐車場に車を停めて、スタジアムまでとぼとぼ歩いた。その道すがら、渡したばかりのゴングの音色が鳴り響くのを、彼はその耳で聴いた」 —- 大会当日の緊迫した空気と滑稽さが行間に溢れている。著者の細田氏は笑わせるつもりなど一切ないと思うが、彼は元放送作家で、芸人を志していたこともあるという。その文章にも生来のエンターテイナーっぷりが滲み出てしまうのだろう。 ■細田昌志は「時代の空気」を描く天才 2003年大晦日、わたしは格闘技ではなく紅白を観ていた。だから当時の興行戦争の狂騒をリアルタイムでは知らない。それでも本書を通して浮かび上がってくる当時の熱狂と混乱に酔いしれた。前作『力道山未亡人』で昭和の空気を見事に再現した細田氏が、今度は2003年大晦日の興奮を鮮やかに蘇らせたのだ。彼は「時代の空気」を描く天才である。 格闘技に興味がない人でも、問題なく楽しめる。細田氏が描くのは、単なる格闘技の記録ではなく、あくまで「人」であり、「時代」であるからだ。「大晦日になんの思い入れもありません。紅白も観たことありません」という人以外は、もれなく楽しめるはず。令和を代表する極上のノンフィクションがまたひとつ誕生した。 文=尾崎ムギ子

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