『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』でペドロ・アルモドバル監督が自死を描くことによって逆照射した“輝き”とは?

みずからの命を絶つことは「悲劇」だろうか。ふとそう思うことがある。 このような問い自体が、傲慢さをともなったものであるかもしれない。たとえば、報道で見るような自死について考えても、むしろそれが「悲劇」と無縁であるような事例を探すほうが難しいだろう。もちろん、利害関係のない第三者がその死の背景の断定や、価値判断を行うことには差し控えるべき側面があるだろうが、他者の自死に対して「悲劇」の色を感じないことのほうが、倫理観の、ひいては人間的な情愛の不足を示しているのかもしれない。 とはいえ、いちど現実を離れ、フィクションにおける「自死」を考えれば、それが多くの場合で物語を躍動させ、受け手を高揚させる役割を果たしていることもまた確かだろう。ただでさえ軽くない「死」のなかに、亡くなった本人の手でもたらされたものであるというスパイスが加わることで、作品には波が生まれ、受け手は少なからぬ心の振動を覚えることとなる。作り手たちももちろんその効果を熟知しているからこそ、多くの物語で受け手を魅了する「自死」は描かれてきた。

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